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礼拝メッセージ

「隠れたことを見ておられる父」
マタイによる福音書6章1〜8節

渡邊義明牧師

現代社会に生きる私たちは、膨大な情報に接することができます。しかし、私たちには隠されている事もあり、すべてを知ることはできません。世の為政者は情報をコントロールし、社会を統べ治めようと企みますが、聖書には全知全能なる唯一の神の存在が記されています。この神こそ、万物を統べ治めておられる存在であり、イエス・キリストが父と呼ぶお方です。

さらに、私たちもイエス・キリストを、十字架の御業によって私たちの罪を贖い、復活された救い主であると信じるなら、神の子とされる特権が与えられると聖書には記されています。また、この父だけが、私たちの目に隠されていることも、私たちが隠していることもすべて見ておられ、それぞれに確かな報いを与えることができるのです。

承認欲求と神の御心

 私たちには、人から認められたい、ほめてもらいたい、という承認欲求があります。

そのために、自分の能力や功績を見せびらかして人から認められようとするのです。人間には、自分が良い人であり、愛のある人だと見せつけて、自分の価値を高め、名声を得ようとする欲求があるのです。しかしイエス様は、その欲求は自制しなさい。人からほめられていい気になっている心を、神は喜ばれないというのです。それは人の目だけを意識して神の目を無視する生き方です。たとえ人からは認められ、名声を得たとしても、神からは認められず、神の好意を得ることもない生き方だ、というのです。

偽善と偽りのない愛

 当時のユダヤ社会では会堂で礼拝を捧げる際、献金のときは各自、前に進んで献金した金額を祭司に告げたそうです。そしてその献金が高額の場合、祭司のそばに招きよせられ、控えていたラッパ吹きが高らかにラッパを吹き鳴らす、という習慣があったそうです。

しかし、そんなことは偽善者のすることだと、イエス様は言うのです。

世の中の名声と、神の好意は必ずしも一致しません。むしろ、世の名声を求める生き方は、私たちを真実な愛の人へと造り上げはしないのでしょう。また、人の心は変わり易いのです。

エルサレムに入城したイエス様を、群衆は「ホサナ!我らを救ってください、救い主よ!」と熱狂的に歓迎しましたが、その二日後には「十字架につけろ!」と一斉に罵ったのです。それほど変わりやすい人の好意を求める生き方は、根本的に不安定にならざるを得ません。変わらぬ愛を持ち、すべてを見ておられる天の父を信頼して生きるとき、私たちは偽善者になることなく、心底から神の似姿に変えられ、常に平安と希望を持つことができるのです。

右の手のすることを左の手に知らせてはならない

 人への施しや善行は自分でもサッパリと忘れてしまいなさい。いつまでも覚えていなくてよい、というのです。なぜなら、自分のした施しや善行に相手が応えてくれなかったとき、それが不満となり、相手への怒りにすら変わるからです。

それでは、本末転倒です。相手に善を行っているのか、悪を行っているのか分からなくなってしまいます。隠れているところを見ておられる神は、私たちの心の中をも見ておられます。人の心の中はプライベートな部分でもあります。そのプライベートな部分が清いか、汚れているか、真実か偽りかを天の父は見ておられます。

また、祈るときは人から隔絶されたプライベートな空間で祈りなさい。隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる父が、その祈りに報いてくださる、とイエス様は教えます。

聖書マタイによる福音書6章8~10節