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礼拝メッセージ

「神への嘲笑」
創世記18章1〜15節

終末期の患者に肉体的、精神的、霊的な医療や看護、いわゆる緩和ケアをほどこす施設をホスピスと言いますが、もともとは「旅人の安息所」という意味でした。病院は英語でホスピタルですが、やはり元は「客をもてなすところ」という意味です。というのは、病気を患うことも、かつては旅をすることも過酷なことであり、孤立することも多かったのですが、神に身を捧げた修道士や修道女がそのような方々を集めて、大切なお 客様として、もてなしたのがホスピスや病院の原点だったからです。

16世紀の宗教改革以降は教会と病院は切り離されるようになりましたが、以前は教会に併設されており、またホスピタル(病院)は、ケガ人や病人だけでなく、生活困窮者や、孤児、寡婦、身寄りのない老人や、障がい者をも救済する施設でした。いずれにせよ、自分の生活を守るだけではなく、苦しい立場、困っている人々を大切にもてなすことは、聖書の大切な教えの一つなのです。

☆ 旅人を懇ろにもてなしたアブラハム

ある暑い日の昼下がり、アブラハムは天幕の入口で座っておりました。ふと、人の気配がするので目を上げると、そこには見知らぬ三人の旅人が立っておりました。 彼らを見るとアブラハムはすぐに立ち上がり、走って彼らを迎え出てひれ伏し、自分のとこ ろで休んでゆくように強く勧め、たくさんの最上級のご馳走を用意し、もてなしたのです。このアブラハムの取った態度はまるで王侯貴族に対するもののようです。

確かに当時この地方にはホテルも宿もなく、旅をすること自体が困難なことであったので、旅人をもてなすことは善行と見なされていましたが、アブラハムの行動は当時のモラルに忠実であったどころか、それをはるかに超えた行為でした。

☆ 信仰の実り

ヘブライ人への手紙13:2に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」とありますが、アブラハムは、この世のモラルを超えた神の国のモラルに従って生きていたのです。つまり、このことは彼の信仰の表れでした。当時は現代のようにテレビも新聞もない時代ですから、旅人からは貴重な別世界の情報を得ることができたことも、大切にもてなす理由の一つでしたが、アブラハムはそうとは知らずに天使たちをもてなし、神の国からの情報を得たのです。しかし、このことはとっさの出来事でした。とっさの行為には日常の考えや行為が表れますので、アブラハムは常に神を意識し、他人にも親切にしていたということです。アブラハムには信仰生活の実りとして、親切という徳が身に付いていたのです。寛大さや、謙遜さ、という徳も自己犠牲をともなうことであるので、十字架に掛けられ、甦られた主イエスを信じて従う生活を積み重ねることによって身に実る聖霊の実りだと言えます。

☆ 神の言葉を嘲笑したサラ

「来年の今ごろ、あなたの妻サラには子供が生まれているでしょう。」という天使の言葉 をすぐ後ろの天幕の入口で聞いて、サラはひそかに笑いました。自分たちは子供を産むにはあまりにも高齢だったからです。しかし、人の心の中をもご存じの主が、「なぜサラは笑ったのか。主に不可能なことはあろうか。」と、サラの不信仰を指摘したところ、サラはとっさに嘘をついて自分を守りました。主は私たちの考えや行為の過ちを指摘します。それは警告であり、叱責でもありますが、裁きではありません。その時、ある者は心を頑なにし、反発しますが、ある者は素直に悔い改め、神のもとに立ち返ります。ここが、運命の分かれ道です。アブラハムもサラも失敗を幾度もしましたが、その度に神に 立ち返りました。それにより、時が来て、約束の神の祝福を得たのです。