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礼拝メッセージ

「打ちのめされるほどの愛」
ヨハネの第1の手紙4章9~10節

野田 修司牧師

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 神はひとり子イエス様のいのちを「なだめの供え物」として、私たちの罪に対する神の怒りを「なだめる」ために与えて下さいました。

これは神の「義」という性質から来るものです。しかし、それと同時に神は「愛」なるお方でもありますから御子イエスキリストのいのちと引き換えに私たちの命を贖いたい願い、その愛を一方的に示されています。

☆救われた喜びがある(福音=Good News)

私はボクシングの選手でしたがボクシングの試合でワンサイドといえば、一方的にパンチを浴び、だるまのように何度も倒されて最後はテンカウントで立ち上がれずKO負けをするような試合かもしれません。私は神のその一方的な愛に打ちのめされました。それも敗者でなく、勝利者としての道の凱旋行列に加えられているのです。ある聖会でとても恵まれて両手を上げて主を賛美していました。そのときに自分がボクサーだったことを思い出しました。勝利の歓喜、喜びはこんな感じだったと思い出しました

☆心の渇望

現代社会は様々なストレスを抱えて生きづらさを感じて生きている傷ついた世代の心の叫びが蠢いています。私たちの心の渇きというのは幾ら水を飲んでも満たされることはありません。「しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことはありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

ヨハネ4章14節

☆神は癒される

ボクシングの試合でボロ負けしたら顔はボコボコ、目はたん瘤、唇はたらこみたいになったりします。傷ついて育った人間は心の中はボコボコでいびつで血まみれになってるようなものです。私自身は屈折した青春時代を送り、薬物や酒、快楽に溺れました。愛って何なのか。本当の愛、いや、神の愛を知ることが無ければ決して癒されることはないのです。

神は傷ついた心を根から癒して下さるのです。

(結論)

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ 3章23‐24節 人を妬む罪、人を赦せない思いや情欲、心の中を取り締まる法律があったら刑務所がいくらあっても足りません。私たちは罪を犯したから罪人なのでなく罪の性質を持って生まれてきました。イエス様はそんな的外れな私たちの身代わりに十字架の上で死んで下さり、そしてよみがえって下さいました。2000年前の愛のエール「わたしは渇く」は今も私たちの世にこだましています。そうです。神は私たちを欲しておられます。