「悲しむ人々は幸いです。その人は、慰められる」
イエス様のこの言葉も大変不思議な言葉だと言わざるを得ません。なぜなら普通、人間は悲しいときには不幸だと感じるからです。
悲しみ
だれしも、悲しみを味わったことがない方はいないでしょう。きっと人の数だけ悲しみはあります。私自身のこれまでの歩みを振り返っても、仲間はずれにされたとき、いじめられたとき、失恋したとき、自分の才能が友人より劣っていると感じたとき、色々と悲しかったことはありました。人は孤独を味わったり、大切な人やものを失ったり、望みが叶わなかったときに悲しみます。愛する者の死は悲しみの中でも特に深い悲しみでしょう。また人間は自分の死を思って悲しみます。そして人間には、罪の悲しみがあります。聖書で言う罪とは法律上の犯罪だけではなく、心の中で犯す罪のことでもあり、罪の意識に悲しむことは人間のしるしです。
悲しみの中で神と出会う
しかし、実は悲しみとは神との出会いの神聖な場でもあるのです。ある牧師は「悲しみは神との出会いの応接間」だと表現しました。なぜなら、悲しみの中で私たちは自分の至らなさや、弱さ、人の愛のはかなさを知り、自らの罪を悟らされ、自らの高慢が砕かれるからです。そして、その悲しみの中でこそ、そのような惨めな自分をも永遠に変わらない絶対的な愛で愛しておられる、造り主である神に心を向けることができるのです。
神は、罪と死と孤独に悲しむ私たち人間のために救い主イエス・キリストを現しました。私たちの自己中心性のゆえに犯した罪の裁きを、代わりに十字架の上で受けてくださったことにより罪の赦しを示し、三日目に復活して、はかない私たちに永遠の命を示し、たとえ人から孤立したとしても、いつも共にいてくださるという約束をしてくださったのです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」2コリント7章10節
自らの罪や、弱さ、至らなさを素直に認め、その悲しみを神の愛を信頼して打ち明けることができる人は幸いです。救い主イエス・キリストの愛のふところに飛び込み、真の慰めと励ましを受けることができるからです。
ハンセン病罹患者、近藤宏一さん、舌で読んだ聖書
11才のときにハンセン病に罹患した近藤宏一さんは、国の隔離政策により瀬戸内海に浮かぶ小島にあるハンセン病療養施設長島愛生園に送られました。やがて病が悪化して視力を失い、手指も欠損してしまいました。その恐怖と絶望の悲しみのどん底で、寮友が読む聖書の言葉を耳にした瞬間、全身を貫く大きな力を意識した彼は自分でどうしても聖書を読みたくなったが、失明している上、手指も欠損しているので点字聖書も読めない。そこで彼は舌先で点字聖書を読むことに挑戦しました。その中で彼は救い主を受け入れ、まことの慰めと励ましを得、希望と使命が与えられたのです。深い悲しみの中、神と共に生きる幸いを得たのです。文学も楽譜も舌で読み、施設内で『ハーモニカバンド青い鳥』を結成し、同じ病に悲しみ苦しむ人々を励まし続け、また晩年までハンセン病問題の啓発に尽くされたのです。