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礼拝メッセージ

「絶望の涙が希望の喜びへ」
ヨハネによる福音書21章1〜18節

墓穴の前で、なすすべもなく悲嘆に暮れて泣いていたマグダラのマリア。せめてもの葬りのために香料を遺体に塗ろうと、朝早くに墓まで来たけれど、墓穴にはイエス様の遺体はなかったのです。
そして、泣きながら身をかかめて墓穴をのぞくと二人の白い衣を着た天使が、イエス様の遺体の置かれていた場所に、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのを見ました。天使は「なぜ泣いているのか?」と尋ねました。「誰かが、わたしの主を取り去りました。どこに置いたのかわからないのです。」とマリアが答え、後ろを振り向くと、そこにはイエス様が立っていたのです。しかし、マリアにはそれがイエス様だとは分からなかったというのです。

天使の存在を聖書ははっきりと記しています。それは超自然的な存在で、かつ霊的で人格を持つ神の使者のことであり、姿かたちも様々で、時には火や、風や、虫や疫病あるいは人の姿をとるときがありますし、また、夢や幻を通しても神は人にメッセージを送ります。
他の人には白い亜麻布としか見えなかったけれど、この時のマリアには神のメッセージを伝える天使として用いられたのではないでしょうか。

マリアは天使と話しているときに、誰かの気配を感じて後ろを振り向きました。しかし、彼女にはそれがイエス様だとはわからず、園丁だと思ったのです。
逆光だったからでしょうか。涙で目が霞んでいたのでしょうか。あるいは、イエス様が生きておられるなどということは全くの想定外だったからでしょうか。

しかし、次にイエス様が「マリア」と名前を呼んだときに、彼女はふたたび振り向き、声の主はイエス様だとわかり「ラボ二(先生)!」と言いました。

ここで「振り向く」という言葉が二度使われていますが、原語では「空間的に方向を変える」という意味と「心の向きを変える」という意味とがあります。マリアは声の主の方向に、空間的に振り向いたと思いますが、きっと心の向きも変わったのです。

それまでマリアは、イエス様の遺体を求めて墓穴の奥を見つめていました。墓とは、死の世界の象徴です。虚無と闇、絶望と滅亡のシンボルです。しかし、声の主の方向に振り向いたとき、つまり心の向きを、イエス・キリストに変えたとき、絶望は希望に、闇は光に、嘆きは喜びに、死の世界から、永遠の命の世界へと心の向きが変化したのです。

それは、イエス様の言葉を信じずに、それまでの常識や、先入観に縛られて、墓穴の中の遺体に香料を塗って差し上げようという、本当の願いとはいえないとは言えない哀しい願いしか持てないあきらめの世界観を捨て、イエス様の言葉をまっすぐ受け止め、信じるときに起こる奇跡です。

マリアは、復活のイエス様と出会いました。それは、心の方向転換をして、墓穴の闇ではなく、出口に輝く光の中に立って名を呼んでいる、生けるイエス様に心を向けたからです。