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礼拝メッセージ

「 主の祈り②」
マタイによる福音書6章11~13節

渡邊 義明牧師 

今週の礼拝の聖書箇所は、イエス様が教えられた、いわゆる「主の祈り」と言われ、現在の教会でも引き続き祈られている祈りのお手本の後半部分です。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

 明日はどうなるだろうか。わたしたちの生活は守られるだろうか。とわたしたちは未来について思いわずらいます。

お金があれば、生きていける。と多くの人たちは考え、将来困らないようにと、お金を貯めるのです。しかし、本当に富は万能でしょうか。

イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と言われました。わたしたちは、神を信頼し、神に仕えて生きてゆくのか、あるいは富に信頼し、富に仕えて生きてゆくのか、選ばねばならないのです。

富こそ、わたしの命を守りわたしを幸福にするものだ、と信じて、富をこの地になるべく多く貯めることを追求してゆくとき、「あなたの隣人をあなたと同じように愛しなさい。」という、キリストの教えを実行することは、できなくなります。

そればかりか、富をこの地に積み上げることによって、心配事は増え、平安は失われ、神からも離れ、ついには希望も愛も喜びも失ってしまい滅んでしまうのです。

しかし、主イエスを心から信じ、御言葉に聞き従う道を追求してゆくとき、わたしたちは万物の支配者、造り主である神に、生きてゆくときに必要なすべてのものを、祈り求めることが許され、また神は、その祈りに応え、ご自分を信じて生きる者に必要なものすべてを必ず供給なさるのです。神に仕えて生きるときに、わたしたちは、はじめて将来の不安から解放され、愛に満ちた真の意味で意義深い豊かな人生を生きることができるのです。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ

 イエス様は「互いに愛し合いなさい」という教えを、弟子たちに語りましたが、そのうちの大切な要素が、「赦し合う」ということです。

わたしたちは、皆、発展途上の不完全なものですから、ミスや失敗をしたり、誤解をしたり、相手を傷つけたり、悲しませたりすることは避けられません。

 しかし、自分を正当化し相手を責めることをやめないなら、争いは止むことがありません。

そうではなく、自分こそ神の目から見たら、不完全な罪人なのだ、しかし、このようなわたしを、主は愛し、赦してくださったのだ、ということを深く認識するとき、つまり、自分の罪と神の愛を深く自覚するときに、相手をも赦すことができるのです。

また、自分を傷つける者、自分に罪を犯す者を赦すときに、神が自分を赦してくださったことが実感でき、平安が与えられるのです。御言葉の真実を悟ることができるのです。

我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ

 これは悪魔の誘惑に陥らせず、救ってください。という意味です。

わたしたちの真の敵として目に見えない悪霊が存在する、と聖書は警告しています。この悪霊がわたしたちを神から引き離し、悪意や敵対心、憎悪、ねたみや、淫乱、貪欲、高慢など、不和と争いと罪の混沌の中に、つまり地獄に導くのです。

わたしたちをこの罪と滅びから救い出すことのできる唯一の存在が、父なる神、御子キリスト、聖霊なる三位一体の神です。このまことの勝利者、万軍の主であられる神に、悪魔からの守りと救いを、日々祈りつつ生活するとき、わたしたちは必ず守られ、祝福されるのです