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礼拝メッセージ

「命の水」
ヨハネによる福音書
7章37~39節

渡邊義明牧師 

日本は水に恵まれた国であるといわれていますが、聖書の舞台であるイスラエル・パレスチナ地域は雨の少ない乾燥地帯であり、きれいな水が尽きることなく湧き出る泉は、貴重な資源でありました。ですから村も町も、泉の近くに建てたのです。

都のエルサレムもギホンの泉という泉の近くに建てられた町でした。

ところで、秋に行われるユダヤの最も大きな祭りである仮庵祭は、農作物の収穫感謝祭であると共に、イスラエルの民がエジプトを脱出して荒れ野を旅した時代のことを忘れないように記念する祭りで、祭り期間の一週間は仮庵(粗末な小屋)で過ごす決まりでした。

祭りの最終日のクライマックスでは、祭司がギホンの泉から汲んできた清水を祭壇に注ぎながら、新しい年に豊かな雨が降ることを祈る儀式が行われました。

☆イエス様が与える生きた水

 その時のことです。いつもは座って穏やかに教えておられたイエス様が、突然立ち上がり、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

と大声で言われたのです。

そして、このときにイエス様が言われた「生きた水」とは、イエス様が栄光をお受けになったあと、ご自分を信じる者たちが受ける「聖霊」のことだと言われたのでした。

☆魂の渇きを癒す聖霊

 生ける水とは、溜め水ではなく、こんこんと泉から湧き出る清い水のことです。

父なる神はイエス・キリストを信じる者に尽きることのない清い水を与えてくださいますが、それは汲めども尽きない聖霊の源泉を与えてくださるということです。

普通の水は私たちの喉の渇きをいやし、肉体の命を生かしますが、聖霊は私たちの魂の渇きをいやし、私たちの命を永遠の救いに至らせる生きた水なのです。

魂の渇きとは、罪悪感や死への絶望や、生きてゆく不安や、孤独感でしょうか。

しかし、神から注がれる聖霊はそれらすべての魂の渇きを癒すことができるのです。

☆魂の汚れを洗い清める聖霊

 また、水は私たちの体を洗い清めるものでもあります。しかし、聖霊は私たちの魂を洗い清めるものなのです。それは、罪からの清めです。罪深い様々な思い、すなわち怒りや恨みや妬み、みだらな思いなどを清めます。また、イエス・キリストを信じるときに与えられる聖霊は、私たち自身の渇きを癒し、清めるばかりではなく、隣人をも癒し、清めるものです。

聖霊は私たちの人格を通して、また口から出る言葉によって現れるものでもあります。

永遠の命の希望を語り、十字架の血による罪の許しを語り、常に共に歩んでくださる助け主の存在を語ることができるのは、この聖霊の泉をいただいた者だけなのです。

☆栄光を受けられたイエス様

イエス様はご自身が栄光をお受けになったのち、私たちに聖霊を注ぐと言われましたが、それはイエス様が神の身分と等しい者であるにもかかわらず、人間と同じものになり、父なる神に十字架の死に至るまで従順であったことにより、高く上げられ、栄光を受けられた後に聖霊を注ぐことを指しています。私たちも神のしもべとして、神の前にも人の前にもヘリ下り、従順に仕えた後に、神からの栄光を受ける、ということを意味します。