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礼拝メッセージ

「人の罪と神の愛」
創世記20章1〜18節

嘘をつくことは罪です。しかし、嘘をついたことのない人はまずいないでしょう。 では、どのような時に人は嘘をつくのか。まず、何か自分に都合の悪いことを隠そうとする ときではないでしょうか。もちろん、私たちは何でもかんでもすべて開けっぴろげにしているわけではなく、むしろ時には隠すべきことも必要でしょう。箴言 12:23 に「思慮深い人 は知識を隠す。愚かな心はその無知を言いふらす。」とあるように、他人への配慮に欠けた 慎みのない言葉を思うままに話す人は愚かな人だとも書かれています。

しかし、隣人への愛ではなく、ただ自らの保身のために人を恐れてつく嘘は、神だけを畏れるべき神の民としては、ふさわしくない不信仰な行為と言えるでしょう。

☆ アブラハムがついた桃色の嘘

イスラエル南西部にあるゲラル地方に移ったアブラハムは、妻のサラが美しかったのでそ の地の男たちに、自分が殺されて奪われることを恐れて「これはわたしの妹です」と言ったところゲラルの王アビメレクに見染められ、後宮に召されてしまいました。 以前、エジプトにおいてもアブラハムは土地の男を恐れてサラを妹だと偽り、ファラオ王にサラが召されてしまったことがありましたが、また同じような過ちを犯してしまったのです。

サラは確かにアブラハムの腹違いの妹ではありましたが、夫婦であることは隠して、妹ですと周りに紹介したのは、真っ赤な嘘とは言えないまでも、桃色の嘘をついたと言わざるを得ないことでした。箴言 29:25 に「人を恐れると罠にかかる。主を信頼する者は安らかである」(口語訳)とある通りのことが起きてしまったのです。

☆ 私たちは真実でなくても、神は常に真実である

サラがアビメレク王に召し入れられてしまい、アブラハムはどのような心境だったでしょう。もはや自分ではどうしようもありません。相手は軍隊を抱えている王ですから、立ち向かうことなど無理ですし、正直に「あの女は実は私の妻なのです。返してください。」などと言おうものなら、「私をだましたのか!」と王の逆鱗にふれてしまうに違いありません。「どうすればいいのだ…」いくら頭を抱えて悩んでも、良い方法など浮かびません。しかし、アブラハムは主なる神と契約を結んでいました。

神はどこまでも真実な方です。たとえアブラハムが一時的に人を恐れて、桃色の嘘をつくような不信仰なことをしてしまったとしても、神はアブラハムを見捨てることも見離すこともせず、窮地に陥ったときには救いの御手を伸ばされるのです。

☆ 神と共に生きる時、八方ふさがりに陥っても失望しない

使徒パウロは「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」(2コリント 4:8)と言いました。途方に暮れるとは、どうしてよいかわからなくなること、です。私たちの知識や能力には限界があり、また、私たちは様々な制限のなかに生きています。そのような自分に過信するなら必ず行き詰まる時がやってきます。しかし、パウロは「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにする」 (2コリント1:9)ことを知ったのです。

アブラハムは自らの弱さと神への信仰の中途半端さにより、小さな嘘をついてしまい、ピンチに陥ってしまいました。しかし、アブラハムと契約を結んでいた神は、アブラハムの祈りに応え、危機から救ったばかりか、さらに豊かに恵みをあたえたのです。

私は主イエスを心から信じて、自らの罪を悔い改め、神の前にひざまづいて真剣に祈り、救われました。それまで知らなかった平安に心が満たされ、喜びがあふれました。しかし、主イエスの十字架の意味が、単なる知識ではなく、深い納得が与えられたのは、それから十数年経ってからでした。神は様々な経験をとおして私たちを完成させるのです。