エデンの園から追放されたアダムとエバに子供が与えられました。最初に生まれた男の子はカインと名付けられました。それは得たここにとか授かった、という意味で、ここに両親の大きな喜びと期待が表れています。続いて誕生した次男にはアベルと名付けました。それは息とか空しいとか霊という意味の言葉で、もしかしたらアベルはか弱い感じの子だったかも知れないし、あるいは霊性の優れた子供だったのかも知れません。
二人はやがて成長し、それぞれが異なる仕事を持つようになりました。
兄のカインは農夫になり、弟のアベルは羊飼いとなりました。
この地方では一般的に優位にあるものが農夫となり、良い土地を所有して、さらに耕作地を広げ、収穫を増やし蓄えるということをしたそうですが、羊飼いだって大切な仕事です。しかし、羊飼いの仕事には、苦労や危険が多かったようです。時には野宿をすることもあったし、野獣に襲われることもあった。しかし、誰かがしなくてはいけないので弟で立場の弱いアベルがすることになったのかも知れません…。
やがて時を経て二人は神に献げものを持ってゆきました。カインは土の実りを持って行き、アベルは自分の飼っていた羊の群れの中から、肥えた初子を持って行ったところ、主はアベルとその献げものには目を留められたけれど、カインとその献げものには目を留められませんでした。
このことについては、ヘブライ人への手紙11章4節前半に
「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。」とあるようにアベルは自分の持っているものの中で、最良の物を神に献げたことが彼の信仰の表れだったというのです。そして、神はそのアベルの信仰を認め、喜んで受け入れたというのです。それに対し、カインはそうではありませんでした。彼が献げた物は土地の初物でも、最良のものでもありませんでした。カインの神への献げ物には、そのままカインの神に対する気持ち、つまり神への冷淡さ、不信仰というものが如実に表れていました。人は人のうわべを見るが、神は心を見る、とあるように神はカインの心を見て、冷淡に扱われたのです。
しかし、カインは自分の献げ物が認められず、アベルの献げ物が認められたことに対して、激しく怒り、顔を伏せました。これはまったく理不尽かつ、身勝手な怒りです。そんな不正な怒りで醜くゆがんだ顔を神に見せることができず、カインは顔を伏せ続け、そして、その醜く不正な感情に曳かれてゆくままアベルを殺害してしまったのです。
顔を伏せるということは、関係を拒絶するということです。神との関係を断つとき、人は罪に支配され、道を踏み外し、的外れの人生を歩むことになってしまうのです。「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」11章4節後半
罪にではなく、信仰によって神に支配されて生きることは、永遠の命を確保する唯一の道です。神に支配されるということは、愛の支配、恵みの支配、を生きることです。
善き羊飼いに守られ、養われ、導かれて永遠の御国までの旅をすることなのです。