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礼拝メッセージ

「聖霊の力を受ける」
使徒言行録2章14〜24 節

戦後日本は、他国の人々が目を見張るような復興を見事に成し遂げたといわれます。しかし、その輝かしさの反面、様々な闇も生じました。その一つが公害です。川の汚染や海の汚染、大気の汚染によって様々な公害病が発生し、今もなお苦しんでいる方もおられます。日本で初めての公害事件は足尾銅山鉱毒事件ですが、この時に身を挺してこの問題と闘った人が田中正造です。その彼を支えた導いたものは聖書でした。彼は御言葉と祈りによって聖霊によって人生の道を導かれ、キリストと共に歩んでいったのです。最近耳にした言葉で「情報汚染」というものがあります。それはこの情報化時代、間違った情報や意図的な嘘などもますます増えてきて、人々の精神や思考に害が及び社会に混乱が広がることを意味します。特に現在進行中のコロナ禍の中で、そのようなフェイクニュースやデマが大量に拡散しつつあり、パンデミック(感染病の世界的流行)よりこのインフォデミック(情報汚染の拡大)の害のほうが深刻であるとも言われています。

しかし、このように混迷を極めている世の中にあって、まことの神に導かれて歩むことができるということは、どれほどの大きな恵みかと思わずにはおれません。

二千年前の五旬節。イエスの弟子たちに約束の聖霊が降り、異国の言葉で神の偉大なわざを語り出したとき、「あの人たちは、あたらしいぶどう酒によっているのだ。」とあざけった人々に向かって、かつて、人々を恐れていたペトロが、声を張り上げて話し始めました。

イエスは弟子たちのもとを離れる時、聖霊が降ると力を受ける、と言いましたが、聖霊を受けると、人を恐れない勇気が与えられるのです。これは、自由が与えられるということです。私たちは人を恐れることでどれだけ不自由な生き方になるでしょうか。聖霊が降るとき、人を恐れない勇気と、自由が与えられます。また、聖霊が降るとき、心に重く暗くかかっていた雲のような憂いや心配が、あとかたもなく消え去り、輝くような歓喜にあふれてくるので、まるで酔っているように見えることもあるのです。それを、聖霊に酔う、と言います。そして、ペトロは預言者ヨエルの言葉を語り出します。ヨエルとは旧約時代の預言者で、終わりの日における神の裁き、特にイナゴの大群による国の荒廃と、そこにおいても輝く神の救いのわざについての預言をしました。
神は旧約聖書の時代にはヨエルを通して、そしてこの時はペトロを通して終わりの時ということを語りましたが、しかし、終わりの時とはすべての終わり、ということではなく、光と闇が混沌としているこの古い時代の終わり、ということです。それは、主の偉大な輝かしい日が始まる前の、汚染や嘘や、不正や悪の混じった古い日が終わる時ということです。

そのときに主は聖霊をすべての人に注ぐ、ということですが、これは主の民すべて、つまりイエスを救い主として受け入れたすべての人に聖霊を注ぐ、ということを意味しています。ヨエル書の血と火と煙の柱という言葉は出エジプト記の出来事を連想させます。主の民を奴隷にし、神の言葉に不従順だったエジプトに下された神の血の裁き。しかし、主の民は神の言葉に従い、家の入口に傷のない小羊の血を塗り、裁きを逃れました。それは、御子イエスの十字架上で流された血を表します。このときエジプトに下された神の裁きと、主の民の救い、そして、約束の地まで40年間の荒れ野の旅路を導いた雲の柱、火の柱、これは聖霊の象徴です。イエスを信じるすべての人に、神は罪の赦しと、聖霊の助けを与えてくださいます。そして、混迷を極めるこの世にあっても、聖霊は必ず約束の地へと主の民を導いてくださいます。主の名を呼び求める者は皆、救われるのです。