約束の聖霊が注がれたペトロは大きな物音に驚いて集まってきたディアスポラたちの前に立ち上がり、声を張り上げて話し始めました。ディアスポラとは、世界各地に離散していたユダヤ人のことで、彼らのうち信心深い者たちはエルサレムで毎年行われる三大祭りに、世界各地から巡礼にやってきたのです。ちょうどこの日は五旬祭の日でした。その50日前には過ぎ越し祭というやはり大きな祭りが行われましたので、彼らの多くはそのままエルサレムに滞在して二つの祭りに参加したのです。
そして、その50日前の過ぎ越し祭の時に何が起きたかというと、イエス・キリストが十字架にかけられて殺され、三日目に復活をしたのです。ペトロは集まってきた人々に向かって、旧約時代のイスラエルの王であり預言者であったダビデの詩を語りました。「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。・・・あなたはわたしの魂を陰府に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命の道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たして下さる。」25〜28節(詩編16:7〜11)
これはダビデの詩ですが、実はイエスについて言っているのだ、とペトロは説き明かします。なぜなら、ダビデ自身は死んで墓に葬られたままなのだから、これは墓から復活したイエスについて聖霊によって預言しているというのです。さらに続けて言いました。「主はわたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」34〜35節(詩編110:1)
このダビデの詩は実は非常に難解な詩で、このときまで人々には理解できないものでした。なぜなら、この中には主が二人登場するからです。まったく謎に包まれた詩でした。
イエスはかつてこの詩のことを語ったことがありましたが、聖霊が注がれたこのときになって初めて、ペトロにイエスの語った言葉への悟りが与えられたのです。
この詩は、イエスが死から復活し、天の父の右に上げられたこと、また天上での父子の会話を、ダビデが聖霊によって幻を見せられ、聖霊によって語ったとしか解釈できないのです。それまで、人々を恐れていた弱いペトロ、またガリラヤの無学な漁師ペトロに聖霊が注がれ、大胆にはっきりと告げました。「あなたがたが異邦人であるローマ人の手を借りて十字架にかけて殺したイエスこそ、神から遣わされたわたしたちのまことの王であり、預言者たちによって預言され、あなたがたが長年待ち望んできたまことのイスラエルの救い主メシアなのだ。しかし、神はこの方を死に支配されたままでおられることなどなさらず、よみがえらせてくださった。わたしたちはそのことの証人なのだ。そして、イエスは約束の聖霊をわたしたちに注いでくださった。あなたがたは今そのことを見聞きしているのだ、あなたがたは大変な罪を犯したのです。」と。
この言葉を聞いて人々は聖霊の力と知恵を認めざるを得ず、大いに心を打たれ、ペトロの言葉を受け入れた人々は悔い改めて三千人ほどが洗礼を受け、罪の赦しと救いを受けたのです。