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礼拝メッセージ

「いつも喜んでいなさい」
テサロニケの信徒への手紙第一5章16〜18節

新型コロナの猛威は依然と止むことなく、私の勤めているホスピスきぼうのいえでも、入居者、従業員合わせて5人のコロナ陽性者が出てしまいました。そのような厳しい状況の中にあっても、平安と恵みが備えられていることに感謝です。

今から100年ほど前にアメリカで発表され、大きな反響を呼んだ小説に、「少女パレアナ」があります。このお話の主人公パレアナは、11才で両親を病気で亡くし、叔母さんの家に引き取られることになりましたが、叔母さんはパレアナを引き取ることを快く思っていませんでした。素っ気ない態度をとられたり、屋根裏の殺風景な小部屋をあてがわれたり、するのですが、パレアナは一向に気にするそぶりを見せず、それどころか喜んでいるように見えるのです。不思議に思ったお手伝いの少女が、そのわけを尋ねるとパレアナは答えるのです。「これは『なんでも喜ぶゲーム』なのよ。私の亡くなった牧師のお父さんが教えてくれた素晴らしいゲームなの。その始まりはこうよ。あるとき教会本部にお人形を送ってくれるようにお願いしたら、送られてきたのは松葉杖だったの。悲しんでいたらお父さんが教えてくれたの。松葉杖をつかわないでいいのは喜ぶべきじゃないか、ってね。喜ぶことを何の中からでも探すのよ。なんであってもなの。それからずうっとやってるのよ。喜ぶことが難しければ難しいほど面白いのよ。」と。

そして、この聖書箇所の本質は、キリストにあって喜ぶ、ということなのです。神から贈られた最大の贈り物であるイエス・キリストを、自らの救い主として受け入れるとき、私たちは喜びの源である神に結ばれて光の子とされるのです。そのとき、どんなことにも喜びを見出す者へと変えられるのです。

私たちも自分だけで生きるのなら、いつも喜ぶことなど、とうてい不可能でしょう。
人間はもともと物事を悪い方に考えがちだそうです。ましてや困難な状況の中にあれば、喜ぶことなど忘れてしまいます。
しかし、救い主が共にいるならば、どのような状況にあっても喜びを見いだすことができる者に変えられるのです。
キリストを信じて、御言葉に従うときに、喜びを見つける心が与えられると思います。先日は頭痛がありましたが、感謝して薬をのみましたが、次の日にはすっかり痛みは消えていました。そのとき、以前私を悩ませていた、苦悩というものが、現在はきれいさっぱり消えていることに気付きました。主は精神的な痛みも抜き取ってくださいます。祈りとは、神に結び付くことです。祈りつつ考えることによって、私たちの考えもまた神の助けを得て、光の方向に進んでゆきます。
私たちは、自らの思考によって、痛み、また喜ぶこともできるのです。光の子とされた者と、主は必ず共にいてくださり、考えや思いも悪や闇や病から守り喜びの道、光の道へとみちびいてくださいます。

また、私たちは喜びをみつけるだけでなく、創り出すこともできるのです。箴言12章14節に「口の言葉が結ぶ実によって、人は良いものに飽き足りる」とあるように私たちは自らの口から出す言葉の種をまくことによって、喜びの実を刈り取り、味わい楽しむことができるというのです。