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礼拝メッセージ

「心の貧しい者は幸い」
マタイによる福音書5章1〜3節

心の貧しい人々は幸いである、とイエス様は教えられました。それはいったいどういう意味でしょうか。
普通、心の貧しい人と言ったらさもしい人だとか、いやしい人、自分のことだけ考える心の狭い人、ケチな人というようなマイナスのイメージがあると思います。

しかし、イエス様が言われた心の貧しさとは、そのようなものではありません。それは、まず第一に心のへり下った人、と言う意味があります。その反対が、心の高ぶったひとということです。高慢でプライドの高い人、自分を賢い人、強い人、優れている人だと自惚れている人が、そういう人です。そして、イエス様が言われた心の貧しさとは、第二に自分が足りない人だと自覚している人のことです。
自分の中に依り頼むべき誇れるものが何一つない人。自分には、幸せに充実した人生を生きてゆくために重要なものが欠けていると、認めている人です。普通は、なかなかそのような事は認められません。なぜなら、人は誰しもがプライドを持っているからです。人は自分を賢い人、強い人、優れている人だと見なしたいのです。そして、充分に自分の力でこの人生を幸せに生きて行く。神の救いや助けなど必要ない、と考えるのです。

そして、自分の力にだけ頼って生きていこうとします。その自分の力の象徴がお金です。しかし、目に見える財産に依り頼んで生きる時、私たちには常に危惧が伴うのです。いつ無くなるのか。途中で足りなくならないか。いくらあっても足りない。と、貪欲になり、ケチになり、悪い意味での心の貧しい人、さもしい人になってしまうのです。

幸いという言葉は、ギリシア語で「最高度の幸福.幸福感」を示します。人として生まれたからには、ただ一度の人生を幸福に生きたいと願わない人はいないでしょう。人間が幸福に生きるためにはどうすれば良いのか、ギリシアではエピクロス派や、ストア派など様々な哲学が生まれました。しかし、聖書では人間は、自分の知恵や力では真の幸福を得ることはできない。人間の幸福とは、神が賜物として与えるものだと言うのです。

自分をあざむいて、自惚れて、最後には何の頼りにもならないものに頼るのではなく、私たちをこよなく愛し、すべての必要をご存知で、満たしてくださる造り主。そのままなら天国に行くことのできない私たちの罪を、十字架の上で贖い、永遠の命の道を開いてくださった救い主。この神を切に求めて生きる心の貧しい人々は、幸いです。