青天の霹靂という言葉がありますが、私たちの人生には、青く晴れ渡った空に突如とし激しい雷が生じるような不測の事態が生じることもあるのです。今年、突如として現れて世界中に猛威を振るっている新型コロナウイルスの事など、昨年誰か予測したでしょうか。
私たちの喜びも平和も満足も、実は儚いもので、いつ割れるか分からない薄氷の上に成り立っているようなものだと言えるのではないでしょうか。しかし私たちの事を完全な愛で愛しておられ、すべての必要を満たすことのできる神、主イエスがおられるのです。そしてこの主を信頼し、不測の事態を申し上げ、助けを求めるときに、主は憐れみを注がれます。
本日の聖書箇所はカナの婚礼と言われるところです。カナとは、イエス様の暮らしておられたナザレ村から歩いて3時間ほど離れたところにた小さな村ですが、そこで結婚式が催され、イエス様と弟子たちも招待されていました。のユダヤ人の結婚式は、1週間も続くものでした。普段は質素に暮らす村人たちも、この当時ばかりは沢山のご馳走を食べ、ぶどう酒をたらふく飲み、歌ったり踊ったりして楽しくお祝いをしたそうです。ところが、突如として不測の事態が生じました。母がイエスに言った。「ぶどう酒がなくなりました」これは大変なことでした。何せ一世一代晴れの日であり、その席でぶどう酒を切らしてしまうなどということは、両家にとっては面目丸つぶれの大恥ですし、新郎新婦にしてもこれから始める結婚生活の幸先が悪いことこの上ありません。ところがイエス様はマリアの訴えを一見突っぱねるように答えますがマリアは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言われました。私たちも、イエス様にどんなことでも願い求めてよいのです。しかし神の時というものがあります。私たちの祈りがいつ応えられるのか、或いは別な応えがあるのかについては、私たちをこよなく愛しておられる神を信頼してお委ねするのです。
さて、そこにユダヤ人が清めに用いる石の水がめが6つ置いてありました。彼らは外出から帰った時や食事の前後に水で手や足を洗い清めたのですが、その水がめに「水をいっぱい入れなさい」とイエス様に言われ、召し使いたちは言われたとおり、かめのふちまで水を満たしそれを汲んで宴会の世話役のところに持っていったところ奇跡が起きました。その途中で水が極上のぶどう酒に変わっていたのです。ここで示されていることは、私たちが祈って信頼し、キリストの言葉に従う時、神の時に驚くべき祝福が起きるという事です。
私たちは、奇跡を起こすことはできません。しかし、言われたとおりかめに水を満たすことならできます。その水をぶどう酒に変えることができるのはイエス様なのです。私たちができるのは、ただこの方を信じて聞き従うことだけです。限りない憐れみにより、私たちの足りなさを、豊かに満たしてくださる方、私たちの罪を十字架の上で贖い、私たちを死と罪から救い出し、永遠の命を与えてくださる唯一の救い主を信頼し、この方の御言葉に従って歩むとき、初めて私たちは揺るぎない平安と喜びの道を歩めるのです。驚くべき祝福が約束されるのです。イエス様から離れた人生が水だとしたら、イエス様と共に生きる人生は極上のぶどう酒のようです。この地上の生活は神の時に天国へと変わるでしょう。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」2コリント9:8