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礼拝メッセージ

「荒野での誘惑」
マタイによる福音書4章1〜11節

イエス様が、パプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のように天から降ってきました。そして、その直後、イエス様は聖霊に導かれて、荒れ野に行き40日間断食をし、その空腹の極致において、悪魔は
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘惑したのです。しかしそれは、悪魔の罠でした。もしその誘惑に従うなら、神の力を使って、自分の欲望を満たすことになります。また、悪魔の言葉に従う悪魔の手下になってしまいます。しかし、神の子イエスは、神に賜った力を自分の欲望を満たすためなどには決して使わず、ただ人々を救うために、犠牲になり十字架にかかられるために世に遣わされたのです。

そこで、イエス様は悪魔の思惑を見透かし、毅然と拒否をしました。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
この言葉は、旧約聖書の中の申命記からの引用です。申命記とは、イスラエルの民が、40年の荒れ野の旅を経て、神の約束したカナンの地へ入る直前に、モーセが民に語ったメッセージが記されています。

イエス様の荒れ野での40日間は、旧約聖書の時代、イスラエルの民が40年の荒れ野の旅に重ねられています。
また、これは今に生きる私たちの姿にも重ねられています。つまりイエスを救い主だと受け入れ、神の子とされた私たちは、故郷を天に持つものであり、故郷の天を目指してこの世という荒れ野を歩んでいる旅人なのです。しかし、その途上では神に敵対する霊的存在である悪魔が常に私たちを滅ぼそうと狙っているのです。
ですから、
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」1ペトロ5:8と警告されているのです。

私たちは、神の目から見れば、荒れ野に迷う羊のような存在です。そして羊を狙う野獣に喩えられる執拗で狡猾な悪魔が、絶えず私たちを食い尽くそうと探し回っているのです。しかし、また同時に私たちには、悪魔との戦いに完全に勝利された羊飼いが共にいて守り御国まで導いてくださる約束が与えられているのです。

この羊飼いこそ、救い主イエス・キリストです。
この救い主に依り頼み、日々悪魔に勝利をしてゆきましょう。

しかしそれでも、私たちは、悪魔の誘惑に負けてしばしば主から離れてしまい、罪を犯してしまう弱さや愚かさをも持ち合わせいます。そんな時には平安や喜びを失い、生きる力も失ってしまうことがあります。
しかし、たとえ罪を犯してしまったときでも、絶望することなく、神に悔い改めて立ち返るなら、天から降った生けるパンであり、まことの羊飼いであられる救い主イエス・キリストは、私たちに何度でも生きる力を与えてくださるのです。愛を満たしてくださるのです。