私たちは何を求めて生きているのか、また、私たちは何につながって生きて行くのか、これらは、私たちの本質に関わる問いであります。
パプテスマのヨハネが弟子2人を連れて歩いていたとき、『見よ、神の小羊だ」と、イエス様を指して言い、それを聞いた弟子たちは、ヨハネのもとを離れイエス様に従って行きました。
イエス様は振り向いてご自分に従ってきた2人の弟子に聞きました。「何を求めているのか」
どうでしょうか。このように尋ねられたら私たちは即答できるでしょうか。私たちは究極的に何を求めて生きているのでしょうか。
フランスの民話に「3つの願い」という話があります。ある田舎に農夫の老夫婦が住んでおりましたが、2人は仲が悪く喧嘩ばかりしていました。ある時、見かねた天使がやってきて言いました「あなたたちが平和に暮らせるように3つだけ願いをかなえてあげましょう。」
2人は驚き喜びましたが、なかなか3つにまとまりません。やがて、朝になりいつものように、おかみさんが朝食の用意をしていたときソーセージがないので「大きなソーセージが欲しいわねぇ。」と言うや否や、大きなソーセージが目の前に突然現れました。おかみさんは、びっくりして「ソーセージが欲しいって言ったら突然こんな大きなソーセージが出てきたのよ!」ご主人も飛んできて、その光景を見るなり「このまぬけ!せっかくの大切な3つの願いのうちの1つがなくなっちゃったじゃないか!こんなソーセージお前の鼻にくっついてしまえ!」すると、大きなソーセージはおかみさんの鼻に、くっついてしまいました。おかみさんは、「早く鼻からソーセージを取ってよ!」と言ったとたん、大きなソーセージはおかみさんの鼻から取れました。これで、3つの願いは終わりです。
でも、私たちもこの夫婦を笑えません。何でもかなえてあげるから、願いを1つだけ言ってみろと言われたら何と答えるでしょうか。
2人の弟子たちは、イエス様に質問されて「ラビ(先生)どこに泊まっているのですか」と尋ねました。これは、ゆっくり話をしたい、お交わりをしたいと言うことです。また、この泊まるという言葉はギリシア語で「メノー」と言いますが、とどまる、つながる、結びつく、というような意味があります。彼らはイエス様というお方が、いったい誰なのが知りたかったのです。イエス様は言いました。
「来なさい。そうすれば分かる」と答えました。そして、彼らはそこで一晩過ごして、イエス様は神と親しく結びついてい
る救い主であると言うことが分かったのです。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」ヨハネ15:7ここで、つながると訳されている言葉もメノーが使われています。
ヨハネは、救い主こそ、私たちがこの人生において求めるべき価値あるものであり、そして、救い主につながって生きることこそ、永遠の命にいたる平安と希望の礎であり、豊かに愛の実を結ぶ鍵なのだと語っているのです。
救い主イエスを求め、このお方にしっかり結ばれて、真の祝福を得ましょう。