神の掟とは、互いに愛することである。
掟には、命令という意味もあります。命令とは上のものから下のものへ言いつけること。聖書は、人間を超えた神の存在を示しており、その神の掟に素直に従うことによって、人は守られ、真の幸いを得るというのです。
そして、神の掟とは、互いに愛し合いなさいということである。
カインは神を侮った
アダムの妻エバは長男のカインと次男のアベルを産みました。やがて2人の兄弟は成長し、アベルは羊飼いとなり、カインは農夫となりました。時を経て、カインは農作物を主のもとに捧げ物として持ってきた。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた。ヘブル語詳訳聖書によると、カインはその日の終わりに残ったものを持ってきた。と訳せるそうです。つまり、カインは一日の収穫をし、良いものは全て自分のものにし、残り物…つまりカインにとって価値のないものを神に捧げたのに対し、アベルは自分の飼っている羊の群れの中から最上の羊を神に捧げた、ということなのです。
「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に捧げ…。」ヘブライ人への手紙11章4節 とある通り、ここでは、アベルの神を尊重する信仰がそのいけにえに現れていたのです。それに対して、カインの神への捧げ物も神に対する心もお粗末なものでした。カインは神に対する畏れ敬う真実な心を持っていなかった。神はアベルとその捧げ物には目を留められたが、カインとその捧げ物には目を留められなかった。しかし、カインは理不尽に怒りました。自分の罪から目を背け、自己正当化をする時、人は他者に怒りを持ちます。しかし、憐み深い神はなおもカインに声をかけます。
「どうして怒るのか。もしお前が正しいなら顔を上げられるはずではないか。しかし、正しくないなら、あなたのためにも、燔祭(罪の償いのためのいけにえ)の小羊を戸口に用意しておいた。それをあなたは捧げるが良い。」6節7節。
アベルの戸口に置かれた燔祭の小羊とは、イエス・キリストを現します。憐み深い神は、罪人のアベルのためにも自らがいけにえの小羊を用意されたというのです。
神に赦され、神の愛を知った人は、愛の人に変えられる
罪とは神との断絶です。
神から離れて、どこへ行くのかもわからない暗闇の中を歩いている私たちのために、神は、神の小羊、イエス・キリストを十字架にかけて、罪の償いを成就されました。
キリストは、父なる神と人間との仲介者です。この方を受け入れることによって、私たちは再び神との交わりに入ることができるのです。神とのコミュニケーションが回復するのです。それは闇から光の中に入ることだと聖書は言うのです。
神とのコミュニケーションの一つは信仰による祈りです。真実な心で祈るとき、神は光を照らしてくださるのです。心の闇を照らされるので、私たちは心の痛みを覚えます。自らの心の罪が明らかにされるからです。しかし、同時にそのような私達の罪の償いとして神は十字架につけられたキリストの赦しを示されるのです。
その時、私たちは神の限りなく深い愛に目が開かれ、感謝の思いがあふれてきます。また、私たちのうちにあった怒りや憎しみ、妬み、様々な汚れた思いは霧が晴れるように消えていき、どのような人をも赦し愛する心へと変えられていきます。