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礼拝メッセージ

「世の愛」と「神の愛」
ヨハネに手紙2章15〜17節

人々は神に無関心

イエス様が、最も愛した弟子であるヨハネを通して、神は「世も世にあるものも、愛してはいけません。」2:15
と言われました。世とは、私たちが住むこの世界のことであります。ギリシア語ではコスモスと言いますが、創造主である神の造られた被造物の総体を指します。

創世記には、神がこの世界を造られたすべてのものをご覧になって「それは極めて良かった。」と言われたことが記されています。その極めて良い世界。それを愛してはいけないとはどういうことなのか?実は、聖書では「世」という言葉には、もう一つ「神から離れた人間の社会」という意味があります。
神を信じない人間の集合体の事です。それを、またはそこにあるものを愛してはいけない。愛するとは、大切にする、という意味の他に、身も痩せるほどに慕う、乞い求める。という意味もあります。この場合、神の手によって造られたこの世界、または、神から離れた人間の社会とそこにあるも
のを、何にもまして慕ってはならない、ということです。それは、創り主である神を無視している
か、見失なっていることなのだ。というのです。
愛の反対は無関心だと言われます。
目に見えるこの世だけを愛し、そこにあるものだけを切に求めるなら、目に見えない神に対しては無関心になっているということなのです。私たちは、この世にあるものだけを追い求めるならば、思い悩んだり、他を見て羨んだり、平安になることはありません。また、私たちの欲というものには限度がないので、満ち足りることはないのです。肉の欲、目の欲、生活のおごり、のみを追い求める人生は、影を追うように虚しいものであり、そればかりでなく、私たちは罪に陥ってしまうのです。

神様は人々に関心をもって「愛」をくださった

イエス様は福音書の中で、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩むな。それらはみな、神を知らない異邦人が切に求めているものだ。あなた方の父である神は、これらがみなあなた方に必要なことを知っている。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」マタイ6:31~33と教えられました。

創造主の神は、私たちの必要をご存じです。私たちを真に満たし、平安や喜びを与える存在である、神を求めよ。と教えるのです。

被造物全てを造られ、支配しておられる創造主こそ、私たちが真に追い求めるべきなのです。なぜなら、神であるイエスキリストが身代わりとなって命をささげるほど私たちを愛されているか
らです。全ての被造物の造り主である神の愛を受け入れ、この方と共に歩みつつ、隣人を愛してゆきまし
ょう。