カテゴリー
礼拝メッセージ

「目を覚ましていなさい」
ペトロの手紙第一5章1〜14節

神を信じた私たちは、神の羊と呼ばれます。
羊には羊飼いがぜひとも羊飼いです。なぜなら、羊を狙う猛獣が地上にうろつき回っているうえに、羊には身を守るための鋭い牙も爪もないのですが、羊飼いは武器を持ち、その知恵と力によって羊飼いたちを猛獣から守ることができるからです。昔の羊飼いは、杖や鞭や投石器、現代の羊飼いはライフル銃を持っている。しかも、羊は方向音痴で迷いやすく、自らの力では、草原や泉を行き巡ることができませんが、羊飼いは地理や気候を熟知し、相応しく導くことができるからです。霊的に成長した信仰者は長老として神の羊を牧する任務が与えられました。長老は、ただ権威を振り回したり、口だけのものになってはならず、自らが神の言葉に従って、群れの模範となるように努めなければなりません。また、信仰的に未熟な者たちは、謙遜を身につけなければなりません。謙遜とは、相手より自分を低くする態度で、教えられやすさとも言えます。ある実業家は、人間は教える能力よりも教えられる能力の方が必要だ。そのためには、簡単には傷つかない心になることだ。プライドが傷つくことに慣れる必要があるとの事。逆に教えられにくい人は、プライドの高い人だ。自己顕示欲、特別意識、競争心などが、耳をつまらせ、人の言葉を素直に聞くことができなくなる。ましてや、神の言葉を受け入れることができなくなる。互いに相手を優れた者と思いなさい、との御言葉を実践してゆくとき、私たちは、平和なコミュニティと、癒しの空間を創りだすことになり、互いの愛と知恵は増し加わる。負けるが勝ち、損して徳とれ、とのことわざもあるが、相手より低く自分を置くことは、負けたように思えるかも知れないが、長い目で見れば有益なのであり、神の恵みが増し加えられることなのである。

私たちの敵は見えない悪魔なのである。悪魔は霊であり、私たちの思考に影響を与える。悪魔に生け捕りにされたなら、私たちは希望も平安も喜びも生きる力をも失ってしまう。

迷い道に入り込み、人を恨み、運命を呪い、他者への憎悪や自己嫌悪の暗闇に閉じ込められてしまう。

そこからの解放者がイエス・キリストなのである。羊である私たちを食い尽くそうと付け狙う獅子のような悪魔を打ち倒すことができる羊飼いがキリストだ。

そのまことの羊飼いである方の元に行くとき、つまり信仰を持って近づくとき、神の用意しておられる平安と希望喜びや愛を受け取ることができる。

目を覚ましていなさい、とは目に見えない敵である悪魔を警戒し、目に見えない羊飼いであるイエス・キリストに近づき、神の与える霊的な幻である永遠の御国を信じていなさいということである。