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礼拝メッセージ

「主イエスキリストを知る」
ペトロの手紙第一1章16〜21節

19世紀を代表するフランスの彫刻家にオーギュスト・ロダンがいます。「考える人」という有名なプロンズ像を、どこかで皆さんも見たことがあるのではないでしょうか。彼の作品に「神の手」というものがありますが、それは大理石、あるいはプロンズの塊りに精巧な手のかたちが彫り込まれ、その手の上にまだ、掘られつつある未完成の人間の姿が乗っています。つまり、私たちは神の手の上で制作途中の作品であるという意味です。私たちは、神と主イエス・キリストとを知ることにより、さらに恵みを増し加えられ、ますます豊かにされ、御国への歩みは確かにされてゆきます。ここでの知るとは、表面的ものではなく一緒に生きることによって与えられる体験的な知識のことです。
私は犬を知っていますが、飼ったことがないので、犬への知識は表面的、断片的、間接的なものしか持ち得ていません。ずっと犬を飼って一緒に生きている人の持っている犬への知識とは雲泥の差があります。同じように、主イエス・キリストを信じて、この方を心に迎え入れ、この方の御言葉を聞きながら、祈りながら歩むときに、私たちの神と主イエス・キリストに対する真の知識は増し加わってゆくのです。
「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
信仰には徳を加えよ、とありますが、徳とは卓越した品性のことを指しますが、それは後天的に磨き、練り、造りあげられるものでもあるということです。また、徳は「善を行う堅固な習性」とも説明がされます。
また習慣が人を造るといいますが、日々心を新たにして主を信じ、祈り、御言葉に聞き従う生活を送るときに、私たちの品性はキリストに似たものへと造りあげられてゆくのです。

アメリカ第16代大統領のアブラハム・リンカーンは敬虔な親に育てられた熱心なクリスチャンで、彼は奴隷解放を始め、偉大な仕事を幾つもしました。彼がこのように言っています。「もし私に木を切る時間が8時間与えられたなら、私はそのうちの6時間は斧を研ぐ時間に充てるだろう。」【このような寓話があります。】
一人の男が仕事を探しに行くと、木こりの職の募集を見つけた。さっそく、親方のところへ行くと、採用されて、森へ連れて行かれ「この辺りの木を切り倒してくれ」と一本の斧を手渡された。男ははりきって日が暮れるまで斧を振り、その日18本の木を切り倒した。親方に報告すると、「よくやった。その調子で頑張ってくれ」と励まされ、自信をつけた男は、次の朝誰よりも早起きして森へ行って仕事を始めた。しかし、精一杯頑張ったにもかかわらず、2日目は13本しか切り倒すことができなかった。「きっと疲れているのだ」と考えた男は、その日早めに寝床についた。3日目は10本、4日目は、7本。6日目には、1日中汗だくになって斧を振るっても3本しか切り倒せなかった。意気消沈した男は恐る恐る親方のところへ行って、すべてを打ち明けた。親方は男に聞いた。「お前、最後に斧を研いだのはいつだ?」男は答えた。「親方、私は朝から晩まで精一杯斧を振るっているのですから、斧を研ぐヒマなんてありませんでしたよ」
私たちが主の御手のうちで、キリストと共に歩む中で、キリストを体験的に知り、人格がキリストに似たものとして造りあげられていくことが主の御心であり、そのような人の働きを主は祝福し、その人と隣人の平和と恵みもまた増し加えられます。
あなたが主イエスキリストを知ることができますように・・