皆さんは、人を見てうらやんだり、落ち込んだりしたことはありませんか。 人と自分を比べて劣等感にとらわれたり、逆に優越感に浸ったり…。しかし、それらはどちらも心を不安定にするものであり、また、神の御心には沿わない心でもあります。
本日の聖書箇所には、人を見て揺れてしまう弟子のペトロと、その心をすぐに察して戒め るイエス様とのやりとりが表れています。
ガリラヤ湖で復活の主イエスにお会いしたペトロは、十字架を前に逃げ出してしまったうえに、三度もイエス様を否んでしまったという失態をとがめられることもなく、完全に赦された上に、イエス様を信じる神の民を委ねられるという最も責任のある使命を与えられ、さらに、ゆくゆくはイエス様とおなじように十字架にかかって殉教をする、という約束をいた だいたのです。
ペトロは、深い喜びと畏れに打ち震えたことでしょう。ところが、その時、ふと振り向くとイエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えまし た。
ここでイエスの愛しておられた弟子とあるのは、この福音書を記したヨハネのことです。 彼は、最後の晩餐のときイエス様の胸に寄りかかって「主よ、裏切る者はだれですか」と尋ねた最年少の弟子でした。ペトロは彼を見てその夜のことを鮮明に思い出しました。
(イエス様を裏切ったのはユダだけではなかった。私も裏切ったのだ。卑怯にも三度も知ら ないと言い切ったのだ。しかし、ヨハネはそうではなかった。婦人たちと共に十字架のもと までイエス様に従ったのだ。そしてイエス様の信頼を得て、大切なお母さまのマリアを託さ れて親子の契りまで結ばれたではないか。みっともなく逃げた私となんという違いだ…)
若いヨハネの姿を見つめて、ペトロは思わずイエス様に尋ねました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と。(私は十字架にかけられるのですね。光栄です。しかし、このあなたの愛しておられるヨハ ネはどうなるのでしょうか。私と同じように十字架の苦しみを負うことになりますか? それともあなたの愛するこの人には、なにかもっと違う安楽な人生を与えるのでしょうか。)
イエス様に心を向けて話していたときに、感謝と畏怖の念で清らかに透きとおっていた心 が、ヨハネに心を向けたとたん、黒雲でかすかに翳ったのでした。劣等感、猜疑心、嫉妬。
イエス様はペトロの心に生じた翳りをすぐに察知して言いました。
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関 係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
確かにヨハネは殉教することなく長生きし流刑先のパトモス島でヨハネの黙示録を書き 記しました。そしてペトロは教会の指導者として生き、最期は十字架上で殉教し神の栄光を 現しました。しかし神さまは深い目的があって私たち一人一人を造られたのです。そして神はヨハネもペトロも、私たちをも完全に愛しておられるのです。その完全な愛とご計画を持っておられる神を信頼して、いつも心を向け、祈りつつ歩むなら私たちは平安なる光の道から、ブレることはないのです。 詩編 97:11 「神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを種まいてくださる。」