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礼拝メッセージ

「十字架につけろ!」
ルカによる福音書23章13〜25節

渡邊義明牧師

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

とイエス様は言われました。

しかし、十字架を前にして強く働いた悪魔の力により、イエス様から心が離れてしまった人々の弱さや愚かさが本日の聖書箇所には克明に描かれています。

☆ 大喜びでイエス様をエルサレムに迎えた群衆

その時はちょうどユダヤ人にとって最大の祭りである過越祭でありました。

各地から祭りのために集まった人々でエルサレムの町は大賑わいでした。

そのようなときにイエス様は弟子たちと共にガリラヤという北部の田舎町からエルサレムに上って来たのです。それは人々のあがないとして十字架にかけられるためでした。

しかし、群衆はそんなことはつゆ知らず、ただ神から遣わされた我々の救い主、メシアがついにエルサレム神殿にやってきて、王に即位すると思い、熱狂的な期待と喜びに包まれてイエス様を出迎えたのです。

ねたみに流される指導者に扇動される群衆、群衆に流されて十字架を許可したピラト

しかし、そのような騒ぎを苦々しい思いで見ていた人たちがいました。

それが、律法学者や祭司長たちという民衆の指導者です。人々には敬虔な教師と思わせていましたが、内心には神への畏れも、人々への愛もなかった彼らを「偽善者」とイエス様は罵りました。さらに、民衆からの尊敬と信頼をイエス様に奪われてしまったということもあり、彼らのイエス様に対する憎しみと、ねたみは殺意となって燃え上がり、不正な裁判を行って、十字架刑に処すためにローマ総督ピラトの前に突き出したのです。しかし、取り調べた結果イエス様には死刑にあたる罪など見つけることはできませんでした。さらに、ピラトはイエスが自分の前に突き出されているのは、ユダヤの指導者たちのねたみのためだということも見抜きましたから、三度も無実のイエスを窮地から救おうと群衆に提案したのです。

彼は良心も良識も持っていた普通の人間でした。

また過越祭には恩赦として人々の望む囚人を一人解放するという慣習がありましたので、ピラトはてっきり群衆がイエス様を釈放するよう要求すると予想しました。

ところが群衆は「十字架につけろ!バラバを釈放しろ!」と叫び続けたのです。

それは、熱心党というユダヤの独立のためには暴力をも辞さないテログループのリーダーであるバラバを要求するよう指導者に扇動されたからでした。群衆はイエスを十字架につけろ、とあくまで叫び続けたので、このままでは暴動が起きると危惧したピラトは、「あなたたちの好きにせよ。」と、不正とは知りながら群衆の声に流されて十字架刑を許可したのです。

☆ 思うこと、考えること、信じること、祈ること。

なぜ、群衆は手のひらを返したようにイエス様への思いが変わってしまったのでしょうか。心コロコロという言葉があるように、誰の心もコロコロと変わりやすいのです。

周りの状況が変わると、それにつられて変わってしまいます。しかし、信仰とは至聖所の内側に魂の錨(いかり)を降ろすことです。錨が至聖所、すなわち、天の国に降ろされているなら、たとえ潮の流れが変わっても、嵐がおきても、船が流されてしまうことはありません。人も、状況も、自分の気分もコロコロ変わります。だから、魂の錨を至聖所の内側にしっかり降ろして、悪に流されることなく、イエス様の御足の跡に従って、愛と義の道、永遠の命へ至る希望の道を進んでゆけるように祈りつつ歩んでゆきましょう。