伏見 敏牧師(八街栄光キリスト教会)
1節の「ちょうどそのとき」とは、多くのユダヤ人が集まっていた時です。イエスに一つの報告が入りました。ピラトがガリラヤ人を殺して、その血を生贄の血に混ぜたという驚くべき内容でした。ユダヤ人たちはガリラヤ人が何か悪いことをしたから殺されたと思っていたことでしょう。それに対し、イエスは次のように告げました。2-3節です。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。」。イエスはユダヤ人たちの心の思いを見抜かれて、殺されたガリラヤ人たちが災難にあったのは、別のガリラヤ人より罪深かかったからではないと断言したのです。そして、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語り、悔い改めを説いたのです。 次いて、イエスは一つの事故の話をされました。4-5節です。「シロアム」にあった塔が倒れ、18名もの方が亡くなったのです。罪深かったのが原因なのでしょうか。イエスは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と否定します。5節と3節は全く同じお言葉です。イエスは悔い改めを迫っているのです。
因果応報という考え方があります。前世やその人の過去の行いが原因で、結果を報いとして受けるという仏教の教えです。聖書は因果応報についてどう教えているのでしょうか。ヨハネによる福音書9章2,3節にその答えがあります。 9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。イエスは因果応報の考え方を明確に否定します。1-5節の主旨は、他人を因果応報のように詮索するのではなく自分の将来、死後のことを考えなさいです。
6-9節は「いちじくの木」の譬え話です。「いちじくの木(イスラエル)」は実を結ばなければ邪魔なものにすぎません。「いちじくの木」は「ぶどう園(この世)」に植えられていたので、肥料も良いので、多くの実を結んでいるはずです。ところが、「実を探しに来たが見つからなかった」のです。ですから、「ある人(神)」は「園丁(イエス)」に「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」と命じたのです。その答えが8,9節です。園丁はもう一年の時間を頂けるよう「主人(神)」に懇願しています。一層の手入れをし、実がなることを試みたいと訴えるのです。そして、「もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と主人へ伝えたのです。6-9節は、悔い改めたのであれば、実を結ぶことが求められるのです。実を結んでいるだろか、単なる邪魔もので未信者に躓きを与えてはいないでしょうか。自問してみようではありませんか。
先月、知床半島沖で観光船が沈没した事故があり、14名もの方がお亡くなりになりました。悪天候にもかかわらず、出航を許可した人災と言えるでしょう。そして、天災や人災は他人事ではありません。ですから、一日も早く悔い改めて滅びに至らないようにしなければならないのです。滅びから救われる唯一の方法がローマの信徒への手紙に記されています。 10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。たったこれだけですので、福音=良いお知らせと言います。他に必要なものは一切ありません。天災にせよ人災にせよ塔は倒れます。塔が倒れる前にイエスを受け入れようではありませんか。