渡邊義明牧師
ヤコブは首と腕に子山羊の毛皮を巻き付けてエサウになりすまし、父イサクのもとに行き「わたしのお父さん」と声をかけました。エサウにしては、あまりに早く帰ってきたので、「ここにいる。わたしの子よ。誰だ、お前は」と尋ねると、ヤコブは「長男のエサウです。お父さんの言うとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、わたしに獲物を召し上がり、お父さん自身の祝福をわたしに与えてください。」と言ったところ「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、いぶかりました。
☆ 思わず口から出たヤコブの信仰
するとヤコブは「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」と答えました。この言葉は前もって準備して出したのではありませんでした。これはヤコブの口から思わず出た言葉であり、それはすなわちヤコブの本音でもありましたし、事実でもありました。それはヤコブの信仰の現れでありました。信仰とは神を愛するということです。
新約聖書ローマの信徒への手紙8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とある通り、神を愛していたヤコブにとっては、まるで精巧な機械の一つ一つの歯車が嚙み合って動き、時計の針を正確に刻むように、様々な人の思惑や行動が働いて、神の祝福を受ける者とされたのです。
また、神を愛するヤコブにとっては、経験するありとあらゆる物事が働いて結局、益となるのです。この「益」という言葉は原語では「有能」「善良」「価値の高い」という意味ですが、神の御子キリストに似た者に変えられる、ということです。
☆ 試練を通して変えられていったヤコブ
ヤコブはまんまと目の見えない父イサクをだまして、神の祝福を受け取りました。
それは、天地の産み出す豊かな食料や、社会的に恵まれた立場が与えられること、神を味方して生きる恵み、などです。
しかし、ヤコブとリベカは自分のしたことの刈り取りをしなければなりませんでした。
というのは、ヤコブがイサクの前から立ち去ると、すぐ、兄エサウが狩りから帰ってきたのですが、エサウが狩りの獲物をおいしく料理して父イサクのところへ持っていき、祝福を求めたとき、初めてイサクは自分がだまされたことに気づき、激しく体を震わせて愕然とし、エサウは弟ヤコブに祝福が横取りされたことを知って、怒り叫び、声を上げて泣きました。しかし、あとの祭りです。この時からエサウはヤコブに殺意を抱き、心の中で言いました。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」
ところが、この心の中の言葉をリベカは聞き取ったのです。心の中でいう言葉は、やがて
人に伝わります。するとリベカはまたもや一計を案じヤコブを遠くにある自分の故郷に逃
すのです。そのうち、エサウ憤りも治まるだろうし、そうすればまたヤコブを呼び戻せる
と思ったのです。しかし、この後一生リベカはヤコブの顔を見ることは出来なかったのです。そして、神の祝福を受けたヤコブは、リベカの故郷に行き、叔父ラバンのもとで20年間も働くのですが、その間幾度もラバンにだまされ、労働の苦労をすることになりました。しかし、神を愛していた、神を信じていたヤコブはそのような困難や苦労、不愉快な出来事を通して、人格は練達され、信仰は堅固になっていきました。つまりそのような試練もヤコブにとって益となったのです。「わたしたちは知っているのです。苦難忍耐を、忍耐は練達、練達は希望を生むということを。」ローマの信徒への手紙5:3b~4