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礼拝メッセージ

「信仰は神の業」
ヨハネによる福音書6節22節~29節

渡邊義明牧師 

今日、皆さんは何を求めて礼拝に来たのでしょうか。
何を求めてイエス様のもとに来られたでしょうか。私たちは何を求めて生きてゆくのでし
ょうか。また何のために働くのでしょうか。ただ、パンのためでしょうか。
☆イエス様を捜し求めた群衆の心
ある日、イエス様は神の国の福音(よい知らせ)を聞きに集まった群衆に、二匹の魚と五
つのパンを増やして二万人もの人を満腹させる、という奇跡を行ないました。
その奇跡に立ち会った人々は、イエス様を自分たちの王にしようとしたのです。そうすれ
ば、もうけっして飢えることはなくなり、豊かな国になるに違いないと考えたのです。
しかし、その彼らの思いを知りイエス様は退かれていきました。
なぜなら、イエス様がこの地に来られたのは、ただ私たちの生活を物質的に豊かにするた
めだけではないからです。しかし人々はイエス様を捜し求め、とうとう翌日ガリラヤ湖畔
で見つけたのですが、その彼らに対して、イエス様はこんなことを言いました。
☆朽ちないパン
「はっきり言っておく、あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからでは
なく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくなら
ないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
ここでイエス様は、自分はあなたたちの考えているようなものではない。それ以上のもの
だ。あなたたちがわたしを求めているのは、パンが欲しいからだ。いつでも豊かにパンを
食べられる生活を求めているからだ。しかし、そのパンは朽ちるパンに過ぎない。またそ
れを毎日腹一杯食べていてもあなたがたは、やがて朽ちてゆく存在に過ぎない。朽ちてゆ
く人生の、わずかな間だけ役に立つ、朽ちるパンをあなた達に存分に与えるためだけに、
わたしは来たのではない。そうではなく、永遠に朽ちることのない、またそれを食べるな
ら永遠の命に至るパンがあるのだ。
そのパンを与えるためにわたしは来たのであり、そのパンを得るためにこそ、あなたがた
は力を尽くすべきだ、と教えられたのです。
☆天から降ってきた生きた命のパン
その言葉を聞き、彼らが「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」と尋
ねると、「神がお遣わしになったものを信じること。それが神の業である。」と言われま
した。もちろん、パンが私たちに必要なことは言うまでもありません。しかし、朽ちてゆ
くパンで、朽ちてゆく人生を満たすだけでは決して満たされない、神に似せて造られた存
在が私たち人間なのです。
聖書は神が天地万物を造られたことを、そして、神は御自分に似せて、しかし御自分にわ
ずかに劣るものとして人間を造られたということ、だからこそ、人間には神の助けが必要
な事を伝えています。そして旧約聖書のコヘレトの言葉3章には
「神はまた、永遠を思う心を人に授けられた」とも記されています。
つまり、私たちは自分が朽ちる体を持つ有限な存在だという自覚とともに、永遠の命に思
い焦がれる存在でもあるのです。有限の人生を悲しみ、救いを求める存在が人間なのです。
人間は考える葦であると言ったパスカルは「人間の心の中には、神が造った空洞がある。
その空洞は神以外のものによって埋める事はできない」とも言いました。
その空洞はパンだけで満たされることはありません。ただ神がお遣わしになった救い主イ
エス・キリストを信じる信仰だけがその空洞を完全に満たすことができるのです。
イエス・キリストこそ私たちに与えられた、天から降ってきた生きた命のパンなのです。