カテゴリー
礼拝メッセージ

「聖なる生活を追い求めよう」
ヘブライ人への手紙12章14~17節

渡邊義明牧師 

今日はヘブライ人への手紙を取り上げました。ヘブライ人は別な呼び名では、ユダヤ人、あるいはイスラエル民族とも言います。この手紙はローマ帝国によってエルサレムが滅ぼされる直前のエルサレム在住の、ユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれたと考えられています。迫りくるエルサレム陥落やユダヤ教徒からの迫害によって、キリストから離れてしまう人達も現れてくる中で、ユダヤ教とは、やがて現れる実体の影のようなものに過ぎず、その永遠に完全な実体はキリストであり、キリストによって旧約聖書の教えは完成し、人は救われる、ということを、聖霊による知恵によって著者は見事に説き明かしています。

☆神の偉大なるご計画

 この手紙の中で、神の偉大なるご計画とは、アダム以来、神に背いたことによりエデンの園から追放され死ぬべきものとなり、その死の恐怖の牢獄に一生涯閉じ込められ、悪魔の奴隷となってしまった私たち人間を、キリストによって解放し、永遠の御国に導き入れること、また、創造主である神の御手から離れてしまった私たちが、再び神の御手の中でキリストの似姿に変えられることにありました。

神はその救いの実体の前に、影のようなできごとをユダヤ人に経験させました。

旧約聖書の時代にモーセを通して行われた、エジプトからの脱出がそれです。

神は、エジプトで奴隷であったユダヤ人の苦しみの叫びを聞き、モーセを用いて、約束の地カナンに導き入れたのですが、エジプトを脱出してからカナンに入るまでの40年間、荒れ野の旅を経験させました。その40年はユダヤ人にとって神の試練の期間だったのです。

しかしその旅の途中、心をかたくなにして神に背き、死骸を荒れ野にさらした者も多くいたことが記されています。そして、同じようにキリストを信じた私たちにも神の国に到るまで、様々な試練が与えられるのですが、それは神が私たちの真の益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えるためだというのです。

☆神を見るために

 「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい、聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」著者は2つのことを言っています。1つはすべての人との平和を追い求めよ、もう1つは聖なる生活を追い求めよ、です。これは、イエス様が言われた「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と同じ内容です。

すべての人との平和を追い求めるのが真のキリスト教です。ユダヤ教では、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられましたが、イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祝福を祈りなさい。神が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と教えられたのです。聖なる生活を追い求めるということは、心の清さを追い求めること、つまり、すべての悪意や敵意、憎悪や嫉妬、貪欲や好色、恨みなどの汚れた思いから解放された心を持ち続けて生活をせよ、ということでもあります。そうすれば、神を見るというのです。

☆聖なる者となるために

 しかし、私たちの親である神は、私たちが揺るぎない清い心を持つために、あえて試練を与えるのです。心穏やかでいられない状況に私たちを導くのです。私たちが、怒りや、憎しみや、妬みや、みだらな思いに誘惑される状況へと導くのです。それらは、私たちに与えられる鍛錬なのです。あるバスケットボールのコーチは選手を鍛えて上達させるために、あえて雨の中で滑るボールを使って練習するそうです。また、聖書には反面教師が登場します。たった一杯の食物のために永遠の祝福を手放してしまった俗悪でみだらなエサウのようにならないようにするためには、救い主イエスから目を離さないことが何よりも大切です。