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礼拝メッセージ

「悔い改めの実」
創世記43章

渡邊義明牧師 

安息日とは、心身の疲れをいやすために、すべての労働から解放されて安らかに休息することですが、聖書にその起源がしるされています。

ところで、疲れにも色々ありますが現代人の疲れの多くは脳疲労だと言われています。

ある研究によると、情報過多の現代人は1日に約6万回もの思考を行うそうです。そしてそのうちの約8割がネガティブな内容とのこと。それでは疲労して当然ですし病気にもなるでしょう。しかし聖書は、神を信じて思い煩いをすべて委ねる、という生き方に真の平安があることを、またそのことによって神を知る喜びと希望が与えられることを教えています。

☆父の葛藤

 ファラオの夢を解き明かしたヨセフの言葉通り、7年の大豊作が訪れ、そのあとに7年の大飢饉が始まりました。飢饉は激しく、カナンの地に住むヨセフの兄たちがエジプトから買ってきた食糧も食べ尽くしてしまい、ふたたび買いに行かなければならなくなりましたが、エジプトの宰相(実は弟のヨセフ)に、今度来るときには必ず末の弟も一緒でなければ、私の顔を見ることは許さぬ。と言い渡されていたので、父ヤコブは葛藤に苦しみました。なぜならヤコブは末弟ベニヤミンを、いなくなったヨセフに代わりに溺愛していたからです。

ベニヤミンを手離して、エジプトに行かせなければ食糧は手に入らない。しかし、かわいいベニヤミンを危険があるかもしれない旅には出したくなかったのです。

☆自己犠牲の愛

 葛藤に悩む父を見て、兄のひとりであるユダが言いました。

「ぜひあの子と一緒にエジプトに行かせてください。そうすれば我々は飢え死にせずに済むではないですか。あの子のことは私が保障します。万が一あの子が無事に帰って来ないようなことがあったら、私が生涯その罪を負います。」と。

これはユダの自己犠牲的精神から出た言葉です。そして、このユダの言葉からのちに現われるイエス・キリストの愛が透けて見えるのです。

イエス・キリストは父なる神と、私たちの間に入り、私たちの罪の身代わりとなって十字架につけられました。十字架にかかるということは、神に呪われた者となるということでした。

イエス様は自らを犠牲にして私たちを救われたのです。そこに愛があります。

☆信仰とは神に委ねること

 ユダの言葉はヤコブの心を打ち、ついにベニヤミンを自分の手から離し、旅に出す決心が与えられました。ヤコブは大切なベニヤミンを神の御手にゆだねたのです。

ヤコブはヨセフを失ったつらい過去の思い出も手放し、全知全能なる神、愛なる神、義なる神を信頼してベニヤミンを委ね、すべての思い煩いをも、この方にお委ねしました。

 信仰とは、神がすべてを知っておられるということ、神にできないことは何一つないということ、また神の愛は完全であること、そして神のなさることは完全に正しいということを信頼して、この神に自分自身も、自分の大切なものも思い煩いも委ねることを意味します。

私たちの罪をあがない、赦しと救いを与えるために自らを犠牲にして十字架にかかられた、主イエスの愛を信頼して、神に自分自身をお委ねするときに、また、思い煩いに苦しむとき、この父なる神を信頼して祈るなら、そのとき心の重荷は取り除かれ、真の安息を味わうことができるのです。また、祈りを聞いてくださる父なる神の存在を実感する機会が与えられるのです。そのときに私たちの安息はますます確かになってゆくのです。

そして、そこから活路が開かれてゆくのです。