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礼拝メッセージ

「ヨセフとマリア」
マタイによる福音書1章18〜25節

先日、見次公園を走っていると、ご婦人たちの嬌声がして、そばを通り過ぎる初老の男性 も「おっ、何かいいことあるぞ」と地面の方を見ながら言っているので、よく目を凝らしてみると、ミルクティーのような色の白っぽい雀がご婦人たちの足元で、逃げもせずに、ご婦 人たちをちょこんと見上げているのでした。頭と羽のところが白くて珍しくてきれいな上に、 人が近づいても逃げずに愛嬌があるので、ご婦人たちは小さな嬌声を上げていたのです。

天使は様々な姿で人に現れると礼拝で語ったばかりでしたので、これも、神様がそばにいるよ、というメッセージかな、と思ったのでした。いや、偶然にアルビノ(先天性色素欠乏症)の雀が目の前に現れただけで、そんなことには何の意味もないよ。と言われればそれまでですが…。余談ですが後で調べてみると、白い雀は古くから縁起が良いとされており、日本書紀にも記述があるとのこと。初老の男性はそれを知っていたのかも知れません。

☆ 晴天の霹靂(へきれき)としての神の恵み

イスラエルのナザレという村に住んでいた処女マリアには、ヨセフという婚約者がいましたが、二人が婚約中に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになりました。神の御業は想定外の時に与えられるものでもあります。マリアはもちろんヨセフに言ったでしょう。「このお腹の子は神様の子なの。聖霊が降って私は妊娠したのよ。」と。しかし、誰がそんな話を信じるでしょうか。当然、ヨセフだって信じられません。ヨセフは婚約中の自分たちの上に起こった突然の出来事にうろたえました。ヨセフは正しい人でした。聖書のいう正しい人ということには二つの意味があります。一つは律法に従うという意味での正しい人ということです。当時、ユダヤにはモーセを通して神が民に与えた律法があり、社会的、宗教的なことから日常生活のあらゆる点まで細かい規則が定められていましたが、ヨセフは律法を重んじる人でした。そして、もう一つの聖書がいうところの正しい人とは、憐み深い人ということ。人の 苦しみや悲しみに寄り添うことのできる優しさをもっている人ということです。

☆ ヨセフの葛藤

しかし、ヨセフはこの二つの正しさの間で葛藤しました。なぜなら、ユダヤの律法では、たとえ婚約中であっても相手以外の異性と性的な関係を持ったならば、石打ちの刑という極刑に処せられることになっていました。村人に囲まれて石を投げられたり、子供の頭ほどの石で頭を打たれて殺される残酷な死刑です。「もし、律法に従えばマリアは石打ちの刑だ。私には身に覚えがないのだから、他の男の子を宿したとしか考えられない。マリアはお腹の子は神様の子だ、などと言っているが、本当のことを言うのが怖いのだろう。しかし、石打ちの刑で殺されるなんて耐えられない。どうすればいいのだ…。」 ヨセフは苦悩しました。そして、ひそかに縁を切ろうと苦渋の決断をしたのです。

☆ 夢に天使が現れ神の言葉を語った

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 天使たちは、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、神が遣わす霊ですが様々な姿を取ります。夢に現れもします。ヨセフは夢に現れた主の天使の言葉を受け入れ、迷いから、闇から、滅びからも救われました。救いを受け継ぐ人々に語られる神の言葉を、たとえ途方もないことでも、そのとき理解はできなくても、どのような姿で語られても、受 け入れる時、私たちの人生に奇跡が起きるのです。まことの救い主に出会うのです。