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礼拝メッセージ

「光の中に移し入れられて」
コロサイの信徒への手紙2章9〜14節

 1832年(天保3年)三重県の鳥羽港から江戸に向けて米を積んだ千石船が出航しましたが、途中で遭難し14ヶ月間漂流の末、1834年1月アメリカ西海岸に漂着しました。船員14名のうち生き残ったのは岩松、音吉、久吉3人だけでした。しかし、彼らはネイティブアメリカンに捕らえられ奴隷とされてしまいますが、マクラフリン博士に助けられ好意により日本に送り帰されることとなりました。

 船を待つ間3人は博士から英語と聖書を教えられました。しかし、日本はキリシタン禁教の時代。彼らは必死に聖書の教えを拒みます。やがてマカオまでたどり着いた3人を迎えたのは宣教師のギュツラフでした。ギュツラフは日本に福音を届けたいと祈っていたのでした。

ギュツラフから聖書の翻訳の協力を求められた3人は、非常におびえましたが、それまでに出会ったクリスチャンの愛と真実の深さに心動かされ、覚悟して翻訳に協力し。そのとき生まれた最初の日本語訳聖書で「愛する」という言葉は「ご大切」という言葉に翻訳されました。

☆ 神の愛を学ぶ

 愛には色々な愛があります。普通私たちは耳にするのは、いわゆる恋愛でしょうか。

この男女のあいだに自然発生的におきる本能による愛をギリシャ語ではエロースと言いますがそれは自己中心的な愛、人間的な愛、いわば肉的な愛です。

しかし聖書が最も大切なもの、と教えるのはギリシャ語ではアガペーといいますが、これは聖なる愛であり、人間的なスケールを超えた聖なる神の愛を示します。

このアガペー、聖なる神の愛を人間に教えるためにキリストは生まれました。

そして、今もなおこの聖なる神の愛で私たちを愛しておられるのです。

この愛は、「憐み、慈しみ、恵み」深い愛で、敵をも赦す寛容な愛、何度も背く者をも愛する忍耐強い愛、受けるに値しない者が受ける愛、罪人をも憐れむ愛、一度契約を結んだ者をどこまでも愛する誠実な愛、などと表現されますが、キリストはこの人間的な愛を超えた愛を人に知らせるためにこの地に来られ、そしてその愛を実現するために十字架に掛けられました。

 そしてキリストを信じて弟子となった私たちは、この神の愛を学ぶ者とされたのです。

この神の愛によって神に愛されていることを信じて、この神の愛によって愛されていることを信じる者同士が互いに、未熟でありながらもこの神の愛に倣って日々歩んでゆくことによって、ますます神を深く知るようにされるのです。さらに、創造主なる神の手により御子に似た聖なる者とされてゆくのです。

☆ 主に喜ばれるように歩む

 何かをするとき、あるいは考えたり話したりするときはいつも共におられる神が喜ぶことを選択してゆくのです。

そのためには常に神の存在を意識するとともに、神の御心を知る必要があります。

神の御心は私たちが救い主を信じて互いに愛し合うことによって、私たちがキリストに似た聖なる者へと成長することです。

私たちは、つい人の顔色を見て、人の喜ぶような言動を取ることがあるかと思いますが、神を信じ、神の子とされた者は、神の喜ぶことを選び、行ってゆくことで、ますます神と深く交わるようになるのです。

私たちはキリストを信じた時から、闇の支配から解放され神の国へと移されています。