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礼拝メッセージ

「神の国が近づいた」
マタイによる福音書4章12〜17節

本日の礼拝は、私たちより先に天国に召された兄弟姉妹を記念しつつ、天地万物の主なる 神を礼拝する昇天者記念礼拝です。板橋泉教会ではこれまで九人の方々を天国に見送ってまいりました。ところで、聖書にははっきりと後の世の存在が記されています。後の世は、来るべき世とか、未来の命とも訳されていますが、いずれにせよ今の世が終わったのちに、今とは異なるあたらしい世界が始まるということです。 先に後の世に行かれた兄弟姉妹たちを見送った私たちも、いつか必ず後の世に行かなければ なりません。でも、後の世に行くということは、恐ろしいことではないでしょうか。なぜなら、それは死を意味するからです。誰にとっても、死は恐ろしいことです。しかし、やがて必ずやって来る死の恐怖にさいなまれながら、この人生を生きてゆくという ことは、何とやるせないことでしょうか。それは、徐々に深まってゆく闇に向かっての歩みであり、ある意味生き地獄と言えましょう。しかし、今の世も、後の世も造られた神がおられることを、そして、その神が死の恐怖に一 生涯、囚われていた人々を解放するために、救い主をこの世に遣わしてくださったというこ とを聖書は私たちに伝えているのです。

☆ イエス・キリストが人々の前に現れた

ガリラヤの領主ヘロデ王は、自らの罪を民衆の前で責めた洗礼者ヨハネを捕らえて牢につなぎ、自分の誕生日の祝いの席でその首を切ってしまったのです。イエス様はそのことを知ったのち、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに住まわれました。

ガリラヤは長い間、異国に占領され続けた歴史があり、エルサレムに住む正統派ユダヤ人からは「異邦人のガリラヤ」と見下されていました。しかしイエス様は人々が見上げるようなところや輝かしいところではなく、むしろ人々か見向きもされないところや、悩み苦しむ 人のところに、現れてくださるということなのです。

☆ 暗闇に住む民、死の陰の地に住む民

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、神の裁きの日の近いことを告げ、 権力者であったヘロデ王に対しても、ひるむことなく罪を糾弾したヨハネを見て、民衆は初め「この人は、神から遣わされたメシア(救い主)ではないか」と期待を寄せました。 ユダヤには古い時代から、人々を救う救い主が現れる、という預言がなされており、ローマ帝国とヘロデ王からの圧政に苦しめられていた民衆は救い主の到来を、皆が待ち望んでいたのです。しかし、ヘロデ王に無残にも首を斬られてしまったことで、大きな落胆と絶望と、恐怖のどん底に突き落とされてしまったのです。

☆ そこに大きな光が射し込んだ

実はヨハネは人々に告げていました。わたしの後から来る方こそ救い主である、と。預言者イザヤを通して紀元前8世紀から言われていたことが、この時実現したのです。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰に住む者に光が射し込んだ。」ここで言われている暗闇に住む民、死の陰に住む者、とは誰のことでしょうか。 それは、もちろん異邦人のガリラヤと蔑視されていたガリラヤの人々のことであり、また、神の救いを待ち望みながらも、預言者ヨハネの投獄と斬首に絶望した民衆のことであります。しかし、それは、死に向かって生きている私たちすべてのことでもあります。何千年も昔から人間には色々心配事や恐ろしいことがありますが、なんと言ってもその最大のものは死でしょう。しかし、まことの光として来られた主イエスは告げるのです。「時は満ち、神に国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と。