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礼拝メッセージ

「井戸のほとりで②」
ヨハネによる福音書4章13〜30

私たちが生きてゆくために、なくてはならない水ですが、日本で一年間に使われる生活用水はびわ湖の水の量の約3分の2だそうです。そして、一つの中型の台風が降らせる雨水はびわ湖の水の量と同じくらいだということなので、一つの台風が来ると私たちの一年間に使う水は、十分まかなってしまうそうです。これは天地万物の創造主である神が私たちに水を与える方法の一つと言えます。
イエス様はサマリアの女に井戸を前にして
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われましたが、ここでイエス様が与えると言われる水とは、普通の水ではありません。水は私たちの、のどの渇きを癒し、命を支えるためには勿論なくてはならない大切な物です。しかし、その水は私たちの本質的な渇きを癒し、永遠の命に至らせることまではできません。では、私たちの本質とは何か。それは霊なのです。創世記1:26に「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあり、ヨハネによる福音書4:24では「神は霊である。」とあるように私たちの本質は神にかたどって創造された霊的存在なのです。ところが、悪魔の誘惑により人は神に背き、死すべき肉体を持つ存在となりエデンの園から追放されました。

☆ まことの礼拝とは

サマリアの女はそれまでに5人の男性と離婚をし、そのときは同棲をしていたことで、人々からは、堕落したふしだらな女性と見られ白眼視されていたのです。彼女はユダヤ人からはサマリア人ということと、サマリア人の内では堕落した女と見られていたということで二重に蔑視され、疎外されていたのです。しかし、イエス様は彼女をさげすむことも、責めることもせず、むしろありのままを言ったことを評価されたのです。その温かいまっすぐな眼差しは、彼女の心の中にまで届き、彼女は素直になってゆきました。
イエス様を預言者と認め、当時のサマリア人とユダヤ人の確執から生じた宗教問題、つまりユダヤ人はエルサレム神殿で、サマリア人はゲリジム山で、それぞれ神を礼拝し互いに自分たちの正当性を主張して対立しているが、どちらが本当の礼拝なのか問いました。

☆ 神は霊と真理をもって礼拝する者を求めておられる

イエス様は、「わたしを信じなさい。あなたがたが、ゲリジム山でも、エルサレム神殿でもないところで、父なる神を礼拝する時が来る。まことの礼拝とは、霊と真理をもって礼拝することである。」と言われました。礼拝とは神に近づくことであり、神の声に耳を傾け、神の恵みを求め、いけにえと祈りを捧げることです。しかし、イエス様はここで特定の場所や目に見える形にとらわれてはならない。あなたがどこにいるとしても、あなたの内の真実な霊をもって主イエスを信じ、神に近づくなら、まことの礼拝であり、そのような礼拝者を父なる神は求めておられる、と言われたのです。

☆ 主イエスを信じて神につながり人は変えられる

ギリシャ語で霊は「プニューマ」と言い、それは目に見えない風や息という意味も含む言葉です。それは目に見えない神に似せて造られた人間の本質であり、心の最も深いところであり、キリストに出会うまでは死んでいる状態なのです。それは命の源である神から断絶した状態であるからです。しかし、神は救い主イエスをこの地に与え、御自分に立ち返る道を備えてくださいました。英語の religion とは宗教または信仰と訳されていますが、本来の意味は re(再び)ligion(結びつく)ということです。主イエスの御言葉を信じて、サマリアの女は闇の中を歩む人生から、光の中を歩む人生へと変えられたのです。