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礼拝メッセージ

「井戸のほとりで①」
ヨハネによる福音書4章1〜18

その時、イエス様はユダヤからガリラヤへと向かって弟子たちと共に旅をしていました。ユダヤはイスラエル国の南部、ガリラヤは北部にあり、その間にはサマリアがありましたがユダヤ人はサマリア人とは絶交状態であり、北部と南部を行き来するときには、わざわざ遠回りをしてサマリアを避けて通ったのです。その発端は、紀元前8世紀にさかのぼります。というのは、当時、強大になってきたアッシリア帝国にサマリア地方は征服されてしまい、占領政策により五つの他民族が植民されたという歴史がありました。その結果、ユダヤ人と他民族との混血がすすみ、異教徒の偶像礼拝も入り込み、正統な純血を重んじるユダヤ人からサマリア人は差別されるようになりエルサレム神殿にも出入りすることが禁じられてしまいました。その対抗策として彼らは、サマリア地方にあるゲリジム山に神殿を建て独自の礼拝を行うようになりましたので、お互いの溝と反目はますます深まってゆくまま、長い年月がたってしまったのです。
しかし、イエス様は当時の一般的なユダヤ人の慣習を破りサマリアを通って行かれました。

☆ 神には救いの計画があり、会うべき人には必ず会う。

4節に「サマリアを通らねばならなかった。」とありますが、それはどうしてもそうする必要がある、という神の必然を表す言葉です。神はある民族や家族などの救いのために、誰かキーパーソンを選んで、先に救うということがあります。もちろんその本人の救いのためであることは言うまでもありません。
おそらく早朝に出発されたイエス様は、正午近くになりサマリアのシカルという町にあったヤコブの井戸のほとりに、疲れのために腰を下ろしました。弟子たちは食べ物を買うために町に出かけました。するとそこに一人の女が水を汲みにやってきたのです。しかし、それは異常なことでした。というのは、この地方は日中の日差しが強いので早朝や夕方に水汲みをするのが一般的でしたから。正午ごろに井戸に来たということは、彼女は人目を避けて生きていたのです。

☆ 主はすべての隔ての壁を越えて出会ってくださる。

彼女は誰も来ない正午ごろを選んで井戸に水を汲みにきたのですが、その井戸のそばにはユダヤ人の男性が座っているではありませんか。彼女が内心動揺しながらも平静を装って井戸に近づくと、「水を飲ませてください。」と声を掛けられたので、驚きました。なぜなら、当時は男性が見ず知らずの女性に声を掛けるなどということもユダヤ人がサマリア人に声を掛けるなどということも、ありえなかったからです。動揺をしつつ、「ユダヤ人のあなたがサマリア人のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」と尋ねると、イエス様は神の賜物と、生きた水の話をされて自分が誰であるかを暗に示しました。しかし、彼女はイエス様の話された言葉の意味をできず、さらに疑問をぶつけるとイエス様は言われました。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」イエス様が言われているのは、ただの水のことではありませんでした。水を飲めば生理的な渇きはいやされますが、人間の抱える本質的な渇き、それは満たされない不全感であり、罪の意識と、死を前にしての救いへの渇きです。

☆ 主イエスの与える生きた水とは、聖霊であり、永遠の命であり、罪の赦しである。

サマリアの女は渇いていました。何よりも愛に渇いていました。他の誰によっても癒されることのない渇きを癒してくださる憐み深い救い主との出会いによって、彼女は完全に潤されようとしています。私たちの渇きをも知り、完全に癒してくださる主が、おられるのです。