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礼拝メッセージ

「主を信じたアブラ(ハ)ム」
創世記15章1〜6節

光陰矢の如し、まだ日中は暑いですが朝まだ早いうちに目を覚ますと、虫の声が響いており、早くも秋の気配が感じられました。月日の巡るのは早いものです。

☆ 人は瞬く間に過ぎ去るはかない存在だが、永遠なる神のもとに逃れ場がある

詩編90編には、「人生の年月は七十年程のものです。…瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」とあるように人間はこの地に束の間存在するに過ぎず、月日が経つのは、あっという間です。しかし、続く91編では「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ。「わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」と。神はあなたを救い出してくださる。…神のまことは大盾、小盾。」とあるように、滅びから私たちを守られる神の存在を明確に示しているのです。

☆ 恐れるな、わたしはあなたの盾である

さて、戦争に巻き込まれて敵の捕虜になってしまった甥のロトを、わずかな兵隊で救出することに成功したアブラムに、主の言葉が幻の中で臨みました。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。」わたしたちは色々なことを恐れてしまいます。なぜ恐れるのか。それは、目の前の問題や人々に較べて、自分の弱さや、小ささを意識するからです。
20世紀のキリスト教会や思想界に大きな影響を与えたと言われるドイツの神学者、哲学者であったパウル・ティリッヒは「存在への勇気」という本を書きました。それは、人間は生きている限り、常に根源的な不安に脅かされているので、存在し続けるだけでも勇気が必要だ。しかしその生きる勇気は根源的な不安のもとである「死」を超越した究極者である神と共にある時にのみ与えられるものだ。と言うのです。

☆ 信仰とは目に見えないものに目を注ぐこと

幻の中で主に「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と語られたアブラムでしたが、その頃彼には子供が与えられてなかったので、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありませんから家のしもべが跡を継ぐことになっています。(あなたはわたしに子孫を与えると約束をしたにもかかわらず、くださいませんでしたね。だからせっかくの報いも赤の他人の手に渡ってしまいます。残念なことです)」と、やや当てつけがましく答えたのです。
しかし、そんなアブラムを主は天幕の外に連れ出し、夜空に輝く無数の星を見せて、この星を数えられるなら数えてみよ。あなたの子孫はこのようになる。と言われました。アブラムは主を信じました。それが彼の義と認められたのです。
目の前の現実を見ることはもちろん大切です。しかし、ここで聖書は見える現実だけが、すべてだと思ってはいけない。見える現実である被造物を造られた創造主である神に目を留めよ。夜空の星々をも造られたその全能なる力に目を留めよ。と私たちに教えているのです。義と認められるとは、神の御心にかなったということ。神と非常に良い関係に入ったということ。滅びからの救いが約束されたということです。アブラムは100歳近い年齢で妻のサラは不妊の体でした。現実だけ見るなら子供が生まれるなどありえません。しかし、アブラムは神の全能なる力と、約束したことを守る誠実さ、を信じたのです。
信仰とは、神は無から有を生み出すことも、死者を復活させることもできる全能なるお方であると信じることです。アブラムは神の言葉を、信仰で受け止めました。神の究極の愛はキリストにより表されました、キリストを信じることで神との約束の小指は結ばれるのです。