「残り物には福がある」ということわざを聞いたことがあるかと思います。その意味は、人から選ばれずに、最後まで残った余りものの中に、本当に価値あるものが残っているということです。また、欲深く人と争う人よりも、人にゆずる寛大な人の方に幸福が訪れるという意味もあるそうです。
☆ アブラム、悔い改めて最初に祭壇を築いた場所に戻る
エジプトで危機に陥ったアブラムでしたが、主の介入により、サライも無事に戻され、しかもたくさんの財産まで渡されて、アブラムはエジプトを追い出され、最初に祭壇を築いたカナンの地に戻ってきました。アブラムは主に立ち返ったのです。目には見えない主なる神が共にいながら、つい、目に見える人をおそれて祭壇を離れ、危機的状況に陥ってしまったが、主の憐みにより、救われたことを真実な心で悔い改め、感謝を捧げたのです。失敗を通して、主の守りと約束の確かさを身をもって学び、完成された信仰者へと成長してゆくアブラムでした。
☆ 甥のロトとの別れ
甥のロトも、主に祝福されたアブラムと共にいたことによって、多くの家畜を持つようになりましたが、それがもとで問題が生じました。アブラムの家畜を飼う者と、ロトの家畜を飼う者との間で草や、水を巡っての争いが起きたのです。そこでアブラムはロトにそれぞれ別の場所に分かれて暮らそうと提案したのです。
☆ 肉の目に従って目的地を選んだロト
アブラムがロトに先に行き先を選ばせたところ、ロトは目を高く上げ周りを見渡して、豊かに潤っていたヨルダン川流域を選び、移って行きました。
このときロトは自らの肉の目によって一見豊かに見える場所を行き先として選んだということです。
聖書では、「肉」とは有限で朽ちてゆくもの、腐敗するもの、また神から離れて本能的欲望のままに生きる人間を表します。そしてそこには、滅びに向かう悪魔の罠がありました。その場所には「ソドム」という町があったのですが、そこの住民は非常に邪悪で主に対して多くの罪を犯していました。性的に乱れ、暴力が蔓延していたのです。しかし、ソドムは古代のヨルダン川流域にあった町だけを指しているでしょうか。いえ、これは「世」そのものの象徴です。聖書でいうところの「世」とは「神から離れて生きる人間の社会」そのものなのです。
☆ 真に豊かな祝福も平安も主だけが与えることができる
ロトに豊かな土地を譲ったアブラムに主が現れて、これまで以上の祝福を与えました。見渡す限りの土地と、数え切れない程の子孫を与えるという約束をされたのです。アブラムはもちろんその言葉を信じて、祭壇を築きました。世は争いに満ちています。もちろんそれは幸福を得るためです。しかし、まことの幸福は主なる神だけが人に与えることができるのです。イエス様は言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」ヨハネ14:27アブラムは万物の造り主である主と共にいるから、ロトに寛大に譲ることができたのです。この世の平安は富を所有することによって得るものですが、それは虫が食い、盗人に盗まれる類の平安だとイエス様は言われます。また、持てば持つほどトラブルが生じ、失う不安も大きくなるものでもあります。しかし、主が与える祝福と平安こそ、奪われることも、朽ちることのないものであり、また隣人との平和も生まれるまことの富なのです。