人生は旅にたとえられますが、信仰生活もまさに旅であると聖書は教えます。しかし、その旅は一人旅ではなく、いつも主が道連れの旅です。しかもその旅は死に向かう絶望的な旅ではなく、永遠の御国に向かう希望に満ちた旅なのです。
☆ アブラムは人を恐れ窮地に陥った
主の御言葉を信じて、メソポタミアのハランからカナンの地に約600kmもの旅を経て、カナンの地に入ったアブラム御一行でしたが、主はシケムの聖所、モレの樫の木のところで、アブラムに現れて言われました。
「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは彼に現れた主のために祭壇を築きました。すなわち、真心をもって主を礼拝したのです。そして、そこからさらに東の山のほうに移動し、そこに天幕を張り、またそこにも祭壇を築き、主の名を呼びました。アブラムはさらに旅を続け、ネゲブという砂漠のようなところまで行き、そこに住んだのです。しかし聖書には主の御言葉に従って行ったとは書いていません。推測するに、アブラムはカナン人を恐れたのではないかと思われます。なぜなら、シケムの聖所とはカナン人の偶像礼拝の場所であり、モレの樫の木とは占いをする場所であり、いわばカナン人の生活と偶像宗教の中心地であったのですから、そんなところに、よそ者の自分が唯一の真の神の祭壇を築いたことによって、彼らを怒らせ、身に危険が及ぶと心配したから、そんな寂しい砂漠まで来たのではないか。
☆ アブラムはエジプトに下り、妻のサライを妹だと偽る
しかし、それは主の御心ではありませんでした。その地に飢饉が起きたのです。本当ならそこでアブラムはシケムに帰るべきでした。シケムは主がアブラムに現れたところであり、近くに枯れない川があったのです。ところがアブラムはシケムにではなくエジプトに行きました。これも主の言葉に従ったわけではなく、たぶん遊牧民からナイル川の水は枯れないことを聞いたのでしょう。また、そのエジプト人の男は、気に入った女性の夫が外国人ならば殺してでも手に入れることも聞きましたので、サライにはアブラムの妹と言うように頼みました。しかし、それは半分本当ですが(サライは異母妹)半分は嘘です。アブラムは自分の身を守るためにサライに嘘を言わせたのです。しかし、サライはエジプトの民衆だけではなく、なんとエジプト王ファラオに見染められ王宮に召されてしまったのです。これはアブラムにとっても想定外の事態だったに違いありません。
☆ 逆境の中で主の介入があった
ファラオからたくさんの財産を渡されましたが、自分の妻を取られても手も足も出せない不甲斐なさを噛みしめ、さぞかしみじめだったことでしょう。しかし、忘れてはならないのは、アブラムが一人で旅をしていた訳ではないということです。主がここで介入されたのです。たしかにアブラムはカナン人を恐れて主のために築いた祭壇を離れ、自分の浅はかな判断でエジプトに行き、嘘をつかなければ生きていけない状況に陥り、妻を取られてしまった弱い、愚かな、人間です。しかし、主は真実な方なのです、ご自分がいったん契約を立てた人を決して見捨てません。そして、主のご計画を進めるのです。また主は限りなく恵み深い方なのです。主の恵みは一言で言うと、「受ける資格のない者が受ける愛」のことです。アブラムを助けた主と共に、私たちも永遠の御国めざして歩む旅路を歩めるのは、私たち罪人を赦すために十字架にかかられ、復活された主を信じたからに、他なりません。主の恵みとまことの愛に感謝あるのみです。