10月10日は、目の愛護デーでした。私たちに与えられている目は、現代のカメラでも及ばない程、精巧で高機能だそうですが、肉の弱さも持っています。しかし聖書はもう一つの目の存在を教えています。それは霊の目、別な言い方をすれば「信仰の目」です。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」IIコリント4:18「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」IIコリント5:7預言者である洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と、イエス・キリストを見て言いました。イエスを見よ、とは、イエスを信仰の目をもって見よ、と言うことです。
贖いの小羊とは、旧約聖書の時代から毎朝、毎晩、祭司がユダヤ人の罪の贖いのために、神殿でいけにえとして神に献げていた小羊のことです。
しかし、人間の罪は小羊の血では取り除かれることはありませんでした。
そこで完全なる贖いの小羊として、神の子キリストが十字架の上で犠牲になられたのです。この贖いのわざのため、ユダヤ人ばかりでなく、全時代の、全世界の人類の罪が完全に取り除かれました。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」ローマ3:25
そして、キリストの十字架の贖いは、信じる者の罪を償う供え物なのです。ヨハネは、天から鳩のように降った聖霊が、イエスの上にとどまるのを見ました。その前に、聖霊に導かれ、イエスは荒れ野に行き、悪魔の誘惑を40日受けましたが、イエスは、荒れ野で悪魔に従うことはせず、父なる神に従い続けました。私たちも、キリストにつながり続けるならば、聖霊も私たちにとどまっているのです。
宗教改革をしたマルティン・ルターは「頭の上を誘惑の鳥が飛んで来ることを防ぐことはできない。しかし、誘惑の鳥が頭の上に巣を作ることを防ぐことはできる」と言いました。厄介な問題や、許せない人、傷ついた言葉、みだらな思い、などが、私たちの心や頭に浮かんでくるのは、避けられないですが、そのことを繰り返し考え続けることは、頭に誘惑の鳥が巣を作ることです。
その時、私たちの霊の目は曇るのです。罪とは、神から離れた霊的状態のことです。それがあらゆる罪の元なのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を!」
直ちに、キリストに目を注ぎましょう。私たちの罪の贖いのために十字架上で尊い血を流されたキリストを、信仰を持って見つめるとき、聖霊が私たちの心の目を清めます。私たちに与えられた救い主を信じて、真実な心で切に祈りましょう。その時、私たちは罪の状態から解放されるのです。神と共に歩む祝福された者となるのです。