1.人は愛がなければ、生きることができない。
私たちが生きるために必要なものは、食べものや水であり、また、着る服や住むところなどですが、それだけでは人は生きることができないのです。
今から800年ほど昔、ローマ帝国のフリードリヒ2世という皇帝は、もし赤ん坊に言葉を一切話しかけなかったらどのような言語を話すようになるものか知りたくなり、ある実験をしました。それは、50人の乳児とその母をお城に住まわせ、乳を与え、身体を洗い、排泄物の始末をする事は許可するが、目を見つめること、笑顔を向けること、話しかけることは禁じるというものでした。その後どうなったか。赤ちゃんは言葉を話すどころか、一歳の誕生日を迎える前に全員死んでしまったのです。この実験からわかったのは、人間が生きてゆくのには、物質的なものだけではなく、愛の交流が必要だというこということです。
2.神は人を生かすために、イエス・キリストをこの世に遣わされた。
イエス様は「わたしは天から降った生けるパンである。このパンを食べるものは、永遠に生きる」と言われました。神は私たちが生きるようになるために、キリストをこの世に遣わされたのです。また、「誰でも渇いているなら、私のところに来て飲みなさい。
私を信じるものは、聖書に書いてある通り、その人から生きた水が川となって流れ出るようになる。」とも言われ、また「私は道である」とも言われました。
イエス様は、いわば命の源である神と私たちを繋ぐ水道管です。キリストを受け入れることによって、生きた水が常に流れ入ってくるのです。
3.十字架は、人の罪のシンボルであり、同時に、その罪人への神の愛と赦しのシンボル
また、イエス様は、私たちの罪の償いとして神から遣わされたとあります。十字架は人の罪の極みのシンボルです。なぜなら、何の罪もない神の子を、人々が妬みのために殺した記念ですから。人間の悪の象徴です。しかしまた同時に、十字架は神の愛の極みのシンボルでもあるのです。神はそのような罪深い人間をなおも愛し、赦すために、償いとして最愛の御子を十字架につけられたというのです。
神の愛は、犠牲と痛みの極みでした。
キリストも私たちを愛して、赦すために自らの命を犠牲にして、痛みの極みを耐えました。
三浦綾子さんの小説で「塩狩峠」という作品があります。主人公の鉄道員、永野信夫は、元々は、クリスチャン嫌いでしたが、クリスチャンの愛に感動し、自分もクリスチャンとなりました。明治末年、北海道旭川の塩狩峠で、連結部が外れ、暴走し始めた列車を止めるため、線路と列車の間に身を投げ、自らを犠牲にして大勢の乗客の命を救いました。これは実話を基にした小説です。このような愛を示すことは、そうそうありませんが、聖書には「愛は忍耐強い」という御言葉があります。私たちが生きる中で隣人の言動などで苦しみを覚えるとき、相手を憎まず、恨まず、復讐せずに、神に赦されているものとして、神を信頼して忍耐して赦すなら、それは小さな十字架を負うことです。そして、神を信じて、隣人を愛する(生かす)とき、そこに神は共におられるのです。